室町時代後期の公卿,学者。公保の子。号は聴雪,非隠子。皇室が衰微し公家政治も解体に瀕した時代に,後花園,後土御門,後柏原3朝に歴仕し,各天皇の信任をうけて皇室経済の復興に努力し,1506年(永正3)従二位,内大臣にいたったが,この年辞任。16年出家。法名尭空。道号耕隠,逍遥院と号する。
学者としての功績の第1は,一条兼良(かねら)のあとをうけて中世和学の発達を推進したことである。実隆は有職故実(ゆうそくこじつ)に精通して朝儀の保存につとめる一方,応仁・文明の乱(1467-77)で散失した和漢の書物の収集や書写にも努力した。能筆のゆえもあって染筆の依頼が多く,古典のほか《北野天神縁起絵巻》など絵巻物の詞書(ことばがき)等,実隆書写本は多数にのぼる。宗祇,肖柏らから《源氏物語》《伊勢物語》などの古典,桃源瑞仙から《東坡詩》などの講釈をうけるなど勉学にはげみ,同好の士を集めて研究会もひらき,先人の研究を集成して実隆自身も《源氏物語》以下日本古典や儒学をたびたび講義した。また宗祇からいわゆる古今伝受(授)(こきんでんじゆ)をうけ,これを子の公条に伝えた。実隆はまた和歌・連歌にもすぐれ,《新撰菟玖波集》の編纂に協力した。歌集に《聴雪集》《雪玉集》《再昌草》がある。第2の功績は,公家文化の地方普及の上に大きな役割をはたしたことである。実隆自身は戦国大名のもとに下向したことはないが,戦国大名やその家臣は連歌師などを介して実隆への接触を切望し,和歌・連歌の指導や公家の有職故実の質問,あるいは古典の書写や解説を彼に求めた。実隆も生活のため《源氏物語》を能登の畠山義総や肥後の鹿子木親員らに売却したのをはじめ,これらの要請によくこたえた。《大内問答》《多々良問答》は公家の有職故実にあこがれた大内義興・義隆父子との問答集である。第3の功績は,この時代の政治・社会から実隆周辺の文化史上の動向まで,1474年(文明6)から1536年(天文5)にいたる63年間にわたってくわしく書きつがれた日記《実隆公記》をのこしたことである。なお実隆にはほかに《高野山参詣日記》がある。
執筆者:熱田 公
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室町後期の公卿(くぎょう)、学者。三条西家は正親町(おおぎまち)三条家の庶流。父は公保(きんやす)、母は甘露寺親長(かんろじちかなが)の姉。1460年(寛正1)公保の死没により6歳で三条西家の当主となる。応仁(おうにん)の乱が起こった1467年(応仁1)は13歳のときで、実隆と母は鞍馬寺(くらまでら)の坊に難を避け、母はそこで病没する。後花園(ごはなぞの)、後土御門(ごつちみかど)、後柏原(ごかしわばら)、後奈良(ごなら)の4代にわたる天皇に仕え、とくに後柏原天皇の信任厚く、1506年(永正3)に内大臣に任ぜられる。足利義稙(あしかがよしたね)が将軍職についた1508年から、実隆は義稙政権を支持し、朝廷と幕府のパイプ役を務める。このため1509年から1512年まで、毎年の正月に義稙臣下の大内義興(よしおき)や細川高国(たかくに)の来賀を受けている。1516年廬山寺(ろざんじ)において落飾し、法名堯空(ぎょうくう)、逍遙院(しょうよういん)と号する。1520年に至って、高国が家督をめぐる澄元(すみもと)との抗争に敗れ近江(おうみ)へ敗走すると、それまで親しくしていた高国との関係が薄れ、さらに高国と将軍義稙との不和に遭遇すると、武家社会に対する失望から実隆の現実政治への関心は急速に冷却していき、以前からの学問・文芸の生活に立ち戻っていった。
実隆は一条兼良(いちじょうかねら)やその子冬良(ふゆら)とともに学才・歌才の誉れ高く、飯尾宗祇(いいおそうぎ)から古今伝授を受けたほか、『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』の権威であった。また当代一流の能書家としても知られ、地方大名などの求めに応じ揮毫(きごう)した。彼の書は富商武野紹鴎(たけのじょうおう)からの援助とともに、貧しい三条西家の経済を支える収入源でもあった。著書に『詠歌大概抄(たいがいしょう)』『源氏物語細流抄』、有職(ゆうそく)に関する『装束抄』、日記に『実隆公記』、歌集に『雪玉集(せつぎょくしゅう)』『聴雪集(ちょうせつしゅう)』、歌日記に『再昌草(さいしょうそう)』などがある。
[新井孝重]
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1455.4.25~1537.10.3
戦国期の公卿・文化人。公保の次男。1506年(永正3)内大臣。同年出家して尭空・逍遥院と号す。後土御門(ごつちみかど)・後柏原天皇などから厚く信頼され,多くの公卿が経済的な困難から地方に下った時代に,禁中のため京都にとどまって奔走。和漢の学の最高峰として衆望を集めた。和学の面では宗祇から古今伝授や「伊勢物語」「源氏物語」の講義をうけ,のちに宗祇の「新撰菟玖波集」編纂に協力。「源氏物語細流抄」,私家集「雪玉集」,歌日記「再昌草」のほか,有職故実を平易に説いた「多々良問答」を著す。また多くの古典を書写・校合し保存に努めた。日記「実隆公記」は同時代の貴重な記録。
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…室町時代には,一条兼良の《花鳥余情》は鑑賞や語法面に新機軸を開き,宗祇およびその周辺の連歌師たちもそれぞれ業績を残している。三条西実隆はこのころの代表的な文化人であるが,肖柏の講釈をまとめた《弄花(ろうか)抄》のほか,《細流(さいりゆう)抄》《源氏物語系図》(いわゆる新系図)を作った。その子孫が公条(きんえだ)―実澄(さねずみ)(実枝)―実条であり,彼らの手で《明星抄》《山下水(やましたみず)》が成った。…
…
[香道の成立と沿革]
香道の成立については享保(1716‐36)ころの大枝流芳(おおえだりゆうほう)(岩田漱芳)以来南北朝の婆娑羅(ばさら)大名佐々木道誉を始祖とする説があるが(《読史備要》),道誉は香木に執心した収集者ではあっても,その香は闘香であり香道ではない。香道家は流派を問わず三条西実隆(尭空)を始祖と仰いでいる。三条西内府が御香所預を歴任したため御所における香の権威と目され,また宗祇,牡丹花肖柏(ぼたんかしようはく),相阿弥(そうあみ),武野紹鷗(たけのじようおう)ら当代の文化人との交遊で中心的な碩学として都鄙に声望高かったためであろう。…
…常縁はこれを連歌師の飯尾宗祇に相伝し,以後この系統が古今伝受の正当とみなされ尊重されてゆく。この後,宗祇はこれを三条西実隆,近衛尚通(ひさみち),牡丹花肖柏などに相伝し,ここで古今伝受は三流に分かれる。すなわち,実隆と尚通に相伝された古今伝受は,そのまま三条西家,近衛家において受け継がれ家の秘伝となり,肖柏に相伝された古今伝受は,宗訊,宗珀など連歌師に伝えられ堺伝受,奈良伝受となっていった。…
…室町時代中後期,禁裏(皇室)御領を管理するために朝廷内に置かれた役人。1436年(永享8)に三条実量が任命されたのを初見とし,98年(明応7)には三条実望が任ぜられ,1502年(文亀2)ごろの勧修寺(かじゆうじ)政顕,13年(永正10)までその職にあった広橋守光,守光に代わって任ぜられた三条西実隆,61年(永禄4)ごろの三条西公条などが知られている。これらの人々はいずれも幕府,武家との強い関係をもっている。…
…《公条(きんえだ)聞書》《三条西家抄》とも呼ばれた。三条西実隆(さねたか)の《源氏物語》の講釈を,その子公条がまとめたもの。畠山義総の求めに応じて編まれ,1528年(大永8)に成る。…
…室町時代の公家三条西実隆の日記。1474‐1536年(文明6‐天文5)の62年間の記載がある。…
※「三条西実隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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