日本歴史地名大系 「佐島村」の解説 佐島村さしまむら 愛媛県:越智郡弓削町佐島村[現在地名]弓削町佐島三ッ子(みつこ)島を挟んで弓削本島の南西にある南北に細長い島。面積は二・五平方キロ。北に生名(いきな)島、西に赤穂根(あかほね)島があり、南部は燧(ひうち)灘である。島の南部に最高の福羅(ふくら)山(一二六メートル)があるが孤立峰で、島の大半は標高五〇メートル以下で、よく耕地化されている。島の歴史は古く、組合式石棺もあり、保元三年(一一五八)には岩城(いわぎ)・生名島とともに石清水八幡宮領であった。中央の石槌(いしづち)山は村上水軍の狼煙台跡といわれている。東岸の江尻(えじり)・宮浦(みやのうら)にかつては人家が多かったが、海賊の略奪を逃れるため、北西岸、現在の本浦・粟手(あわて)方面に移住したと伝えている。 佐島村さじまむら 神奈川県:横須賀市佐島村[現在地名]横須賀市佐島小田和(こたわ)湾の北縁を形成し、南縁の長井(ながい)村と相対し、東は長坂(ながさか)村、西北は芦名(あしな)村に接する。天文一九年(一五五〇)吉月吉祥日の糟屋清承願文写(県史三)に「奉□像建立大慈大悲観世音菩薩、相州三浦郡蘆名郷佐嶋村観妙寺之御本尊也」とみえる。小田原衆所領役帳に糟屋兵部少輔「卅弐貫七百文 三浦佐島」とある。文化六年(一八〇九)の家数一五四、船数は海士船二、小猟船六、押送船二、小漁船六(「組合七ヶ村一件」逗子市誌)。天保初期の家数一六六(風土記稿)。天保一四年(一八四三)の家数一六三、人数九三七(「村明細帳」福本文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報