水軍(読み)スイグン

デジタル大辞泉 「水軍」の意味・読み・例文・類語

すい‐ぐん【水軍】

水上で戦う武士団。特に中世、瀬戸内海や西九州沿岸で活躍した村上水軍松浦党が有名。
海軍。
「この小童、忽ち大志を生じ、―の人とならんと思い」〈中村訳・西国立志編

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精選版 日本国語大辞典 「水軍」の意味・読み・例文・類語

すい‐ぐん【水軍】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 水上での戦争。また、水上での戦いをする軍隊。ふないくさ。ふなて。海軍。
    1. [初出の実例]「渡嶋荒狄反叛。水軍八十艘。殺略秋田飽海両郡百姓廿一人」(出典:日本三代実録‐貞観一七年(875)一一月一六日)
    2. 「水軍の行(てだて)、云ひ含め給ける故」(出典:陰徳太平記(1712)二六)
    3. [その他の文献]〔春秋左伝注‐襄公二四年〕
  3. 中世(南北朝・室町時代)、北九州・瀬戸内・紀伊熊野などで、海上戦力を保持し、その武力を背景にして、遣明船の警固や貿易に従事した地方武士団。海賊衆ともよばれる。備後因島の村上氏、伊予の忽那(くつな)氏・河野氏・来島(くるしま)氏、安芸の小早川氏一族、防長の大内氏支配下の諸氏、筑前の宗像(むなかた)氏、肥前の松浦(まつら)党、紀伊熊野の衆徒、伊勢の九鬼氏らが有名。その流派に、三島流・一品流・野島流・菅流・全流・盤尹流などがある。また、一四世紀から一六世紀に、朝鮮半島沿岸で海賊行為を働いた、いわゆる倭寇(わこう)と称されるもののうち、日本人の盗賊集団をさす場合もある。
    1. [初出の実例]「水軍之事は神武天皇於筑紫水軍を発し、中国に討入玉ふ。是れ水軍之初也」(出典:三島流水軍理断抄(16C中か))

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改訂新版 世界大百科事典 「水軍」の意味・わかりやすい解説

水軍 (すいぐん)

海上における武装集団。海賊衆警固衆などを指すこともあるが,彼らが大名権力に組織された状態をいうことが多い。海上交通の拠点となる沿岸島嶼に跋扈(ばつこ)し,荘園年貢などを輸送する船の警護役を務めて駄別料を取り立てたり,関所を設けて通行税を徴収したりするほか,ときには往来の船を襲って積荷を略奪するなど乱暴を働いた。瀬戸内海から九州地方にかけての海賊衆は,みずから朝鮮貿易に参加することもあり,また倭寇として朝鮮,中国沿岸を荒らし,人々から恐れられる存在であった。このような海賊衆は漁業経営とも密着した在地性の強い集団で,その配下として多数の漁民を従え,彼らにも武装させていた。いわば兵漁未分離の土豪的大経営で,多くは船団を組んでいた。

 戦国大名は領国内の海賊衆を把握し,あるいは他国から招くことによって,彼らを水軍として編成し,自己の軍事力の一翼を担わせた。豊臣政権と最後まで覇を争った典型的な戦国大名である後北条氏の場合,旧来の土豪層である相模の三崎十人衆や,玉縄衆の愛洲兵部少輔らに諸役や知行役免除の特典を与えて浦賀常詰を命じている。また西浦の松下氏,獅子浜の植松氏など伊豆半島に所領をもつ者も水軍に編入した。彼らは漁業経営者でもあり,後北条氏に対して諸役負担の義務を負った。甲斐の武田氏のように領国が海に面していない大名でも,近隣諸国との戦いのなかで水軍の必要性を認識し,奉行人に命じて海賊衆を募っている。そして,伊勢の小浜景隆を破格の加増を条件として招いたほか,かつて後北条氏の家臣であった間宮信高今川氏に仕えていた伊丹康直らを召し抱え,海上での戦闘に備えている。徳川氏の場合,松平一族の中から水軍は得られなかったため,統一戦争の過程で,他の戦国大名の支配下にあった海賊衆を譜代として組織している。1582年(天正10)武田氏の滅亡後,その水軍であった向井氏,小浜氏,間宮氏,伊丹氏らをみずからの支配下に入れ,今川氏の舟大将であった千賀重親を帰属させた。彼らはやがて江戸幕府船手組,海賊奉行となるが,千賀氏は尾張徳川家に付属させられ,船手奉行として1500石の知行をうけた。旧来の海賊衆が,みずから戦国大名に上昇する場合もある。熊野水軍(海賊)に出自をもつ九鬼嘉隆は,織田信長の北伊勢攻撃の際に船将として参加し,志摩一国を与えられて鳥羽に居城した。同じく熊野海賊出身の堀内氏善(紀伊新宮)や杉若氏宗(紀伊田辺)も大名化している。村上水軍(海賊)を構成する能島氏,来島(くるしま)氏,因島氏らは古くから瀬戸内海の交通を支配していたが,同じく瀬戸内の海賊衆である乃美氏,小泉氏,生口氏らは小早川氏の一族であったことから,村上海賊と毛利,小早川氏との間に盟約関係が結ばれるようになる。北九州の海賊衆である松浦党(まつらとう)の場合も,中世末期には平戸松浦氏,宇久五島氏らによって統合がすすめられるなかで天下統一を迎えた。

 豊臣秀吉朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は,戦国大名化した海賊衆を水軍として把握する契機となった。1592年(文禄1)の陣立書には舟手勢として九鬼,堀内,杉若といった熊野海賊のほか,村上海賊の一派である来島兄弟が名を連ねている。このほか海賊衆に出自をもたない織豊取立て大名も水軍の一翼を占めている。藤堂高虎は紀伊粉河の城主で所領は山間部で,伊予や伊勢に封じられるのは後のことである。脇坂安治加藤嘉明は淡路に入部していたが,少し前までは山城摂津,大和など海と無関係なところに所領をもっていた。朝鮮出兵を命じられた諸大名は,それぞれの地域の条件に従って水軍を編成したが,これが海賊衆の組織化につながったと思われる。たとえば讃岐塩飽(しわく)島の海賊衆に対しては,水主(かこ)650人・船32艘をもって伊予・今治城主である福島正則につくべきことが秀吉より命じられている。石田三成らの奉行人層は,舟奉行として名護屋,壱岐,対馬,釜山に駐留して兵員の輸送にあたっていたが,彼らは直轄領の漁民などを水主として徴発し,諸浦の舟を回漕させて直属の水軍組織をもっていた。旧来の海賊衆とは関係の薄い水軍もある。

 海賊衆が戦国大名の水軍に編成されていく場合,彼らの独立性は強く,戦国の争乱のなかを転々としながらも,主家と運命をともにせず,最後は江戸幕府の舟手奉行といった幕藩制下の一職制に位置づけられていく。またみずから戦国大名化した海賊衆は,文禄・慶長の役を契機として豊臣政権の水軍に転化するが,これと無関係な織豊取立て大名も新たな水軍組織に加えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「水軍」の意味・わかりやすい解説

水軍
すいぐん

海賊衆、警固衆、船手(ふなて)衆、船手方、船手組などと称され、室町~戦国時代の大名に付属して海上業務に従事した軍事集団。その前身は、海上の諸権益に生活の基盤を置く海賊である場合が多い。彼らを水軍へと組織化する一つの契機は、室町幕府が遣明船(けんみんせん)を派遣するにあたって、海賊の被害を防御する目的で、海辺の守護や有力土豪に警固を命じたことにある。備後(びんご)の守護山名(やまな)氏は領国内の因島(いんのしま)に根拠を置いた村上氏に、また豊後(ぶんご)の守護大友(おおとも)氏は、のちに大友水軍として活動することになる、国東(くにさき)半島の海辺土豪岐部(きべ)・富来(とみく)・櫛来(くしき)の3氏に渡唐船の警固を命じている。その後、因島村上氏は応仁(おうにん)の乱(1467~77)のとき山名氏に属して戦功をあげている。安芸(あき)の守護武田氏は1495年(明応4)4月、警固衆の白井氏に「安芸国仁保島海上諸公事(くじ)」を安堵(あんど)している。このように守護大名は海辺土豪の保有する海上諸権益の知行・安堵を通じて彼らと主従関係を結び、守護被官の水軍として位置づけた。

 戦国大名のなかには守護の警固衆をそのまま引き継いだ者もいたが、水軍の施策は積極的に進められた。安芸の毛利氏、豊後の大友氏、相模(さがみ)の後北条(ごほうじょう)氏、甲斐(かい)の武田氏が水軍を組織した戦国大名として著名である。毛利氏は天文(てんぶん)10年代(1541~50)から安芸国佐東(さとう)郡に、水軍を動員するための給地である「警固料」「舟方給」を設定して、自己の権力と直結した水軍を育成し、領国の拡大につれて周防国(すおうのくに)大島郡の屋代島(やしろじま)に水軍基地を増設した。毛利氏と対抗した豊後の大友氏は守護時代国東半島の海辺土豪を警固衆としたが、とりわけ海辺の直轄地である海部(あま)郡の佐賀(さが)郷や津久見(つくみ)、速見(はやみ)郡の日出(ひじ)浦などに居住する海辺土豪の諸役を免除して水軍の役目を課した。若林氏は、佐賀郷一尺屋(いっしゃくや)を根拠とした大友氏の直属水軍である。相模後北条氏は永禄(えいろく)年間(1558~70)紀伊の海賊衆梶原(かじわら)氏を招いて水軍の将とした。天正(てんしょう)年間(1573~92)梶原氏は乗組衆などを仕立てるための土地を後北条氏から給されている。甲斐武田氏は1568年(永禄11)ごろ、駿河(するが)に侵入して今川氏の旧領を手中にすると、伊勢(いせ)の海賊衆小浜(おばま)氏を水軍の将とした。豊臣(とよとみ)政権の船手衆のなかには中世海賊衆の系譜をもつ石井氏、菅(かん)氏、九鬼(くき)氏らがいたが、その中心は豊臣政権の上昇に伴って大名になった子飼い大名の船手衆である藤堂(とうどう)氏、脇坂(わきざか)氏、加藤氏らにあった。海賊の存在は1588年(天正16)に出された「海上賊船禁止令」によって否定され、統一政権の水軍は強化された。なお近世大名治下では参勤、上洛(じょうらく)など、おおむね藩の海上交通や船舶に関する業務を行った。

[宇田川武久]

『宇田川武久著『瀬戸内水軍』(教育社歴史新書)』『宇田川武久著『日本の海賊』(1983・誠文堂新光社)』

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百科事典マイペディア 「水軍」の意味・わかりやすい解説

水軍【すいぐん】

古代から近世にかけての水上武力集団の総称。古代の船師・水師,中世の海賊・海賊衆・警固船,近世の船手(ふなて)組などのこと。中世の水軍はふつう海賊衆と呼ばれ,1.港湾の経営,海上の関銭の徴集,武力行使などを行う地方豪族の結合体,2.沿海の豪族に寄食して海上活動を行う浮浪者集団,の二つがあった。戦国時代には大名権力による組織化がはかられ,熊野海賊出身の九鬼嘉隆に率いられた織田信長の水軍と小早川隆景が率いた村上氏一族(村上水軍)を中心とする毛利氏の水軍が有名。豊臣秀吉の全国統一後は,海賊衆も次第に秀吉の指揮下に入り,統一された水軍として文禄・慶長の役で戦った。江戸幕府は大名統制のため大船破棄を命じ,水軍は幕府用船などを管轄する船手組だけになった。
→関連項目鳥羽[市]鳥羽藩松浦党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水軍」の意味・わかりやすい解説

水軍
すいぐん

船に乗って戦闘する兵力をいう。海軍。古くは「ふないくさ」といい,舟師,船師,水師などがみえ,『大宝令』では,兵部省下に主船司をおいて公私の船を管掌させた。平安時代中期以降は海賊衆,警固衆と呼ばれた。海上交通の発達に伴い,普段は海上運輸に従事し,ときとすると海賊行為を行なった。瀬戸内,紀伊,熊野,九州西部に早くから現れた。鎌倉~室町時代末期に活躍したものとしては,松浦氏小早川氏河野氏村上氏九鬼氏が著名である。豊臣秀吉の朝鮮の役 (→文禄・慶長の役 ) には,九鬼氏が大将として四辺の水軍を率いて従軍している。江戸時代に入って,幕府は船舶建造に大いに制限を加え,船手頭の下に御船手組をおいて統制した。嘉永6 (1853) 年,黒船の来航により,船舶製造の禁を解き,安政6 (59) 年,船手頭を廃した。

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普及版 字通 「水軍」の読み・字形・画数・意味

【水軍】すいぐん

水上軍。

字通「水」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の水軍の言及

【伊勢水軍】より

…伊勢地方は古くから,伊勢神宮への貢進や海からの熊野参詣のルートとして海運が盛んで,リアス海岸の良港と大湊の造船業を背景として,水軍が発達した。代表的な海賊衆としては,向井氏,小浜氏,泊氏,千賀氏らがあり,南北朝期以降,伊勢国司北畠氏に属し,兵船を率いて活躍した。…

【熊野水軍】より

…熊野海賊ともいう。豊富な材木と良港を背景にもつ熊野地方には,古くから水軍が発達し,中央政界の動向とも密接に関係した。著名なのは熊野別当教真の子孫で,とくに新宮別当家は兵船を多く持った。…

【船手組】より

…江戸幕府番方の職制。水軍。制度上確立したのは1632年(寛永9)である。…

【兵農分離】より

…これによって被支配身分の者は武装を禁じられたのである。 刀狩令と同時に発せられた海賊禁止令(海上賊船禁止令)は,船頭・加子(かこ)(水主)から今後いっさいの海賊行為をしない旨の誓紙を徴収するものであるが,これを契機に,かつては各地の沿岸島嶼など海上交通の要衝を根拠地として活動した海賊衆は,諸大名の被官となり,水軍に組織されていった。一般漁民は武装解除されたうえ百姓身分となり,各地の沿岸で小規模漁業を営む専業者に確定づけられた。…

※「水軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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