日本大百科全書(ニッポニカ) 「信濃自由大学」の意味・わかりやすい解説
信濃自由大学
しなのじゆうだいがく
大正期に長野県上田・小県(ちいさがた)地方に開設された民衆教育機関。1924年(大正13)2月に上田自由大学と改称。1921年11月、地域で創造的に生きようとする3人の農村青年、金井正(かないただし)、山越脩蔵(やまこししゅうぞう)、猪坂直一(いさかなおいち)が推進者となり、これに在野の哲学者土田杏村(つちだきょうそん)が協力して発足した。自由大学は農閑期を利用して民衆が労働しつつ生涯学んでいく民衆大学として構想され、講師には土田杏村をはじめ、タカクラ・テル(高倉輝)、新明正道(しんめいまさみち)、恒藤恭(つねとうきょう)、谷川徹三(てつぞう)など新進気鋭の学者が参加した。自由大学運動は、長野県、新潟県その他の地方都市や農村に波及し、24年には各地の自由大学の連絡組織として自由大学協会がつくられ、25年からは『自由大学雑誌』が刊行された。上田自由大学は、地域の青年たちの学習の拠点として大きな役割を果たしたが、急激にファシズムへ傾斜する社会情勢のなかで、また養蚕業の不況の深刻化や官憲の弾圧などの要因に災いされて、31年(昭和6)には消滅した。
[山野晴雄]