日本歴史地名大系 「備後村」の解説 備後村びんごむら 埼玉県:春日部市備後村[現在地名]春日部市備後西(びんごにし)一―五丁目・備後東(びんごひがし)一―八丁目・一(いち)ノ割(わり)一―三丁目・緑町(みどりちよう)五丁目大場(おおば)村の北に位置する。村内を日光道中が通り一里塚があった。埼玉郡新方(にいがた)領に属した(風土記稿)。田園簿では田三六〇石余・畑四八〇石余で、ほかに野銭永七九四文がある。幕府領。延宝七年(一六七九)の年貢は米一九一石余・永八一貫余、ほかに大場谷草銭九三八文が割付けられている(森泉家文書)。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)。その後村を割いて旗本戸田・森川・高木・正木の四氏に与えられ、幕府領と合せて五給となる。 備後村びんごむら 兵庫県:加古川市旧加古郡地区備後村[現在地名]加古川市加古川町備後(かこがわちようびんご)・加古川町南備後(かこがわちようみなみびんご)植田(うえだ)村の西に位置し、村の北部を泊(とまり)川が流れる。永正一二年(一五一五)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には当地の福林(ふくりん)寺(現浄土宗西山禅林寺派)が天満宮猿楽雑事費用として一反分(能米四合・白米二合)を負担している。天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(同文書)中の所務帳には買地分として一段三〇代内に備後掃部紺屋、一段に南備後村太郎兵衛、四〇代に同村又次郎が記される。慶長国絵図に村名がみえる。寛永一〇年(一六三三)姫路藩主本多氏の家臣都筑外記は当村内高一八〇石などを与えられている(「本多政朝知行宛行状」谷家文書)。正保郷帳では田方五三四石余・畑方二九石余。 備後村びごむら 大分県:大分市旧大南町地区備後村[現在地名]大分市下戸次(しもへつぎ) 備後大野川右岸に位置し、対岸は成松(なりまつ)村など。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高四二二石余、利光村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三三六石余・出来高五〇石余。正保郷帳ではすべて畑高で三三六石余、戸次庄に所属。文政六年(一八二三)には川床組に所属(万用集)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by