日本歴史地名大系 「加古川市」の解説 加古川市かこがわし 面積:一三八・四九平方キロ県の南部に位置し、南は瀬戸内海に臨む。北は加西市・小野市、東は三木市・加古郡稲美(いなみ)町・同郡播磨町・明石市、西は高砂市・姫路市に接する。市域の東部は六甲(ろつこう)台地に連なる洪積台地、中央部は沖積平野、西部は凝灰岩からなる丘陵地帯である。南部を東西に国道二号と二五〇号、JR山陽本線・山陽新幹線・山陽電鉄本線が通り、加古川駅を分岐点にJR加古川線が北へ延びている。市域を二分するかのように北東から南西へ県下最長の加古川が流れる。〔原始〕旧石器時代の遺跡は岡山(おかやま)遺跡・山之上(やまのうえ)遺跡が発掘されたが層位的資料は得られていない。石器の採集地は約四〇ヵ所が知られている。縄文時代の遺跡は岸(きし)遺跡・東中(ひがしなか)遺跡など四ヵ所があり、いずれも後期・晩期に属する。弥生時代前期では砂部(いさべ)遺跡ほか八ヵ所があり、縄文晩期と弥生前期が複合している。中期は溝之口(みぞのくち)遺跡ほか一四ヵ所、後期は北在家(きたざいけ)遺跡ほか一七ヵ所が知られている。上西条望(かみさいじようぼん)塚は扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸が出土し、墓地と推定される。弥生墳墓としては西条五二号墓が著名であり、ほかに弥生期と推定される二、三の墳墓がある。古墳時代では前期の日岡山(ひおかやま)古墳群、中期の西条古墳群がある。加古川右岸には平荘湖(へいそうこ)古墳群、終末期古墳として地蔵寺(じぞうじ)古墳がある。市域は家形石棺が多用される地域である。〔古代〕市域は律令時代の加古郡の西半部と印南(いなみ)郡の北半部からなる。「和名抄」にみえる加古郡の望理(まがり)・長田(ながた)・賀古(かこ)三郷と、印南郡の大国(おおくに)・益気(やけ)・含芸(かんき)三郷の郷域すべてまたは一部が当市に含まれていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加古川市」の意味・わかりやすい解説 加古川〔市〕かこがわ 兵庫県南部,加古川下流域にある市。南部は播磨灘に面する。 1950年加古川町と神野 (かんの) ,野口,平岡,尾上 (おのえ) の4村が合体して市制。その後も近隣町村の編入を重ねて市域を拡大,79年には志方町を編入した。中心市街地の加古川は西国街道の宿場町,明治以降は山陽本線と加古川線が交わる交通の要地として発達。北部の穀倉地帯は,米,ムギ,野菜が栽培され,家畜,家禽飼育も盛んであった。南部一帯の工業化は 1896年の毛織物工場,別府 (べふ) への肥料・農具工業の進出に始り,第2次世界大戦後,播磨工業地域の発展に伴い国道2号線沿線や播磨灘沿岸の埋立て地に,鉄鋼,金属,機械,食品などの工場進出が相次ぎ,重化学工業都市となった。 1960年代初めからは東加古川駅北部から神野にかけての台地に大規模な住宅地化が進んだ。加古川の刀田山鶴林寺は聖徳太子ゆかりの天台宗の名刹で,国宝の本堂と太子堂で知られる。尾上の尾上神社はマツの名所。西条の古墳群は史跡。北部の丘陵一帯は,播磨中部丘陵県立自然公園に属する。市域南部を JR山陽本線,国道2号線など幹線鉄道,道路が横断,加古川線が北へ延びる。面積 138.48km2。人口 26万878(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by