僧津村(読み)そうづむら

日本歴史地名大系 「僧津村」の解説

僧津村
そうづむら

[現在地名]吾川村宗津そうづ

かわ村のほぼ西に位置し、同村の枝村。「土佐州郡志」は「惣津村南向、東本村田村、西池川村、南茗荷之内、北池川蛭之岡」と記す。村域は標高二〇〇メートルを超える地で、集落は散在する。宗津とも記す。天正一八年(一五九〇)の菜川地検帳にソウツ村として一〇六筆が記されるが、多くは切畑で、わずかに茶や楮もみられる。屋敷数は一四でうち居屋敷は一一。「ミネサウツヲカタヤシキ」として記される一反二一代の屋敷地は「主殿居」とあり、武士化した農民と思われる主殿は、多くの抱・扣・作などの権利をもっている。

江戸時代の本田高は三一・七八五石(元禄郷帳)。寛保郷帳では戸数三三、人数一七二、馬二五、牛二、猟銃二六。


僧津村
そうづむら

[現在地名]安芸市僧津

土居どい村の北に位置し、東に安芸川が流れ、西は一宮いちのみや村に接する。中央を安喜浜あきはま村から畑山はたやま村に至る道が通る。「僧都」とも記す。

天正一七年(一五八九)の安喜庄地検帳に「僧津村」とみえる。元禄郷帳には本田高四七六・一八二石が記され、新田高は元禄地払帳で九〇石余、幕末には一四九・〇九二石で(明治三年郷村高帳)、近世初期までにすっかり開発されたらしくあまり増石していない。「土佐州郡志」は家数およそ六〇とするが、耕地は砂土とあり、安芸川の運んだ土砂の堆積地であったらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android