日本歴史地名大系 「八代北俣村」の解説 八代北俣村やつしろきたまたむら 宮崎県:東諸県郡国富町八代北俣村[現在地名]国富町八代北俣八代南俣(やつしろみなみまた)村の北東に位置し、北は児湯(こゆ)郡山田(やまだ)村(現西都市)、東は三名(さんみよう)村。南北朝―室町時代には諸県庄に含まれ、八代南俣とともに八代名または単に八代とよばれた。永享四年(一四三二)六月、島津忠国の軍勢は都於郡(とのこおり)(現西都市)と六野原(むつのばる)の間に五つの陣を布いたが、戦果を得られず内山(うちやま)(現高岡町)に退却している(日向記)。当地に六野原、現三名に六野、現西都市山田にも六野原の地名が残り、六野原はこの付近をさしたものとみられる。天正一六年(一五八八)八月五日、島津義弘は豊臣秀吉から八代三〇町を宛行われた(日向国知行方目録)。文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)では八代村として高三千九六二石余。慶長五年(一六〇〇)一〇月一日、関ヶ原合戦で敗北し薩摩に帰る途上の島津義弘らを迎える使者は、本城(ほんじよう)から六野原を通過し都於郡に着いている(「島津義弘譜」「樺山紹劔自記」旧記雑録)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by