島津義弘(読み)シマヅヨシヒロ

デジタル大辞泉 「島津義弘」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐よしひろ【島津義弘】

[1535~1619]安土桃山時代武将薩摩さつまの人。法号、惟新いしん。兄義久とともに九州全土を統一。文禄の役慶長の役で功をあげ、関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗退。帰国して隠居した。

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精選版 日本国語大辞典 「島津義弘」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐よしひろ【島津義弘】

  1. 安土桃山・江戸初期の武将。貴久(たかひさ)の二男。初名は忠平。号は惟新。兄義久をたすけて、九州全域をその勢威下においたが、豊臣秀吉降伏。文祿・慶長の役に従軍して功を立てる。関ケ原の戦いでは西軍に属して勇戦した。天文四~元和五年(一五三五‐一六一九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津義弘」の意味・わかりやすい解説

島津義弘
しまづよしひろ
(1535―1619)

戦国時代~江戸初期の武将。天文(てんぶん)4年7月23日生まれ。父は島津貴久(たかひさ)。義久(よしひさ)の弟。1554年(天文23)蒲生(かもう)氏との合戦に初陣し軍功、大隅(おおすみ)岩剣(いわつるぎ)城の城番となり、続いて日向(ひゅうが)飫肥(おび)城、飯野(いいの)城と前線の城番をした。三山(さんのやま)城攻め、馬越(まごし)城攻め、本地原(ほんちばる)合戦、1572年(元亀3)の木崎原(きざきばる)合戦などで活躍し、九州征覇の合戦でも高(たか)城で大友軍を壊滅させ(耳川の戦い)、水俣(みなまた)城、岡(おか)城、堀切城攻めで連戦連勝したが、1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉に敗れ、降伏し大隅国を安堵(あんど)された。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で泗川(しせん)合戦の軍功があり、関ヶ原の戦いでは西軍にくみし敗れたが、敵陣縦断突破で知られている。1587年に兄義久の後を受け家督を継いだとされているが、史料では家督を継いでいない。敵味方戦没者の六地蔵塔の建設、朝鮮からの陶工招来、千利休(せんのりきゅう)からの茶道伝授でも有名。生涯52回の軍功という猛将。元和(げんな)5年7月21日没。85歳。墓は鹿児島市福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。

[三木 靖]

『三木靖編『島津義弘のすべて』(1986・新人物往来社)』

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朝日日本歴史人物事典 「島津義弘」の解説

島津義弘

没年:元和5.7.21(1619.8.30)
生年:天文4.7.23(1535.8.21)
安土桃山時代の南九州の武将。貴久の子,義久の弟。兵庫頭。初名は忠平。足利義昭から諱の1字をもらって義珍と名乗り,天正15(1587)年に義弘と改名した。晩年に残した漢文の自伝『惟新公自記』などには生涯を領国の拡張と家の維持のために投入したことが記されている。永禄7(1564)年,日向飯野(宮崎県えびの市)に移り,日向から伊東・大友氏の勢力を排除する先兵の役割を負った。島津氏の勢力が肥後(熊本県),筑後(福岡県),肥前(佐賀県,長崎県)にまでおよぶに伴い,天正13年以降,肥後守護代を務めた。同15年,豊臣秀吉に下ってのちは,秀吉から大隅一国と日向国真幸院を安堵され,同17年,薩摩への帰国に当たり飯野から大隅国栗野に居城を移した。この間,島津氏の家督は義久から義弘の子久保に移る。秀吉の朝鮮出兵に従い,朝鮮での泗川合戦で武名を高めた。出兵中に久保が没し,後継には子の忠恒が指名された。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では(徳川)家康軍に向かって敵中突破を敢行し,人々の語り草となった。この間,大隅国帖佐,加治木に居し,鹿児島と距離を保ってはいたが,兄義久との「両殿」体制はその死まで続いた。<参考文献>『鹿児島県史』

(福島金治)

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改訂新版 世界大百科事典 「島津義弘」の意味・わかりやすい解説

島津義弘 (しまづよしひろ)
生没年:1535-1619(天文4-元和5)

戦国時代の武将。戦国大名島津貴久の次男。初め忠平,号は惟新。法名松齢。1554年(天文23)大隅岩剣(いわつるぎ)城攻めの初陣以後,もっぱら島津氏戦国領国拡大合戦の前線にあり,朝鮮泗川の戦,関ヶ原の戦での敵中突破など多数の武功がある。近世島津藩では兄義久のあとを襲い1587年(天正15)より島津家17代の家督にあったとされている。朝鮮より陶工を連れ帰り薩摩焼を生み出した。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津義弘」の解説

島津義弘 しまづ-よしひろ

1535-1619 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)4年7月23日生まれ。島津貴久(たかひさ)の次男。島津氏17代。兄義久とともに九州をほぼ平定。天正(てんしょう)15年(1587)豊臣秀吉に敗れたが,大隅(おおすみ)領有はゆるされる。文禄(ぶんろく)・慶長の役で朝鮮に出陣,泗川(しせん)の戦いで明(みん)(中国)の大軍を破る。関ケ原の戦いでは西軍に属し,敵中を縦断して退却した。元和(げんな)5年7月21日死去。85歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。初名は忠平,義珍(よしまさ)。通称は又四郎。号は惟新。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津義弘」の意味・わかりやすい解説

島津義弘
しまづよしひろ

[生]天文4(1535).鹿児島
[没]元和5(1619).7.21. 大隅,加治木
安土桃山,江戸時代初期の武将。貴久の次男。義久の弟。初名は忠平,のち義珍。号は維新。真幸院飯野に城を構え,日向で伊東,大友氏を破った。天正 15 (1587) 年豊臣秀吉の九州征伐後,義久の跡を継ぎ,薩摩,大隅両国の支配を安堵された。文禄・慶長の役では,特に慶長3 (98) 年の泗川の戦いに功があった。関ヶ原の戦いには最後まで豊臣方として活躍したが,敗北後も許され,本領は安堵された。

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百科事典マイペディア 「島津義弘」の意味・わかりやすい解説

島津義弘【しまづよしひろ】

安土桃山時代の武将。貴久(たかひさ)の次子。1587年豊臣秀吉の九州征伐後,兄義久に代わり島津氏の当主となり,文禄・慶長の役で朝鮮に出陣,泗川(しせん)の戦で明軍を撃破するなど奮戦。関ヶ原の戦では西軍に属し,その際の敵中突破の話は有名。のち家督を子家久に譲り出家した。
→関連項目島津家久

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津義弘」の解説

島津義弘
しまづよしひろ

1535.7.23~1619.7.21

織豊期~江戸初期の武将。島津家17代当主。薩摩国生れ。島津貴久の次男。幼名又四郎,初名忠平。兵庫頭。惟新斎と号す。1585年(天正13)兄義久の守護代となり九州統一を進めたが,87年4月豊臣秀長に降伏。92~98年(文禄元~慶長3)朝鮮に出陣し,勇名をはせた。1600年の関ケ原の戦で西軍に加わったが,改易を免れた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「島津義弘」の解説

島津義弘
しまづよしひろ

1535〜1619
安土桃山〜江戸時代初期の武将・外様大名
島津貴久の2男。兄の義久とともにほとんど九州全域に勢力を拡大。1587年豊臣秀吉に降ったのち,義久に代わり島津家当主となった。文禄・慶長の役に活躍し,関ケ原の戦いでは西軍に属したが,敗北後も所領を安堵された。

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367日誕生日大事典 「島津義弘」の解説

島津義弘 (しまづよしひろ)

生年月日:1535年7月23日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1619年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島津義弘の言及

【大隅国】より

…その後島津氏は日向,さらにすすんで肥後,肥前,豊後,筑後など北九州まで兵を進めたが,87年の豊臣秀吉の九州入り,島津攻めにより降伏。大隅の地は大半が島津義弘に安堵されたが,肝付一郡は伊集院忠棟(幸侃)に与えられた。94年(文禄3)には太閤検地が実施され,大隅国は17万557石余と算出され,うち加治木1万石は太閤蔵入分,曾於郡清水の内曾小川村ほか6328石余が石田三成分,肝付郡内岩広村ほか3005石余は細川幽斎分とされ,他は島津義久・義弘の蔵入分,それに伊集院忠棟(末吉ほか),島津以久(種子島,恵良部島,屋久島)知行分となった。…

【薩摩焼】より

…鹿児島県の各地で焼かれた陶磁器の総称。桃山時代,文禄・慶長の役の際,領主島津義弘は朝鮮より多くの陶工を連れ帰った。その一人金海(星山仲次)が,姶良(あいら)郡の帖佐宇都に窯をきずいたのが始まりと伝える。…

【島津氏】より

…鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。…

【琉球征服】より

…1609年(慶長14)薩摩の島津氏が樺山久高を将とする3000余名の軍勢を派遣して琉球を侵略した事件。島津侵入事件ともいう。徳川政権は16世紀半ばに断絶した日明両国の国交回復を対外政策の基本とし,そのための対明交渉を琉球に斡旋させる目的で,1602年冬陸奥の伊達領に漂着した琉球人を島津氏に命じて本国に送還させ,琉球に聘問使(へいもんし)の派遣を要求したが,琉球側がそれに応ぜず,来聘問題は薩琉間の政治問題となった。…

※「島津義弘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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