国富町(読み)くにとみちよう

日本歴史地名大系 「国富町」の解説

国富町
くにとみちよう

面積:一三〇・七一平方キロ

諸県郡の北東部に位置し、北は西都市、北東は宮崎郡佐土原さどわら町、東は宮崎市、南は高岡たかおか町、西はあや町、北西は児湯こゆ西米良にしめら村に接する。標高は宮崎平野につながる中心部本庄ほんじよう付近で約二〇メートル。南俣みなみまた川・深年ふかどし川が西都市と西米良村との境の掃部かもん(一二二三・四メートル)の麓に源を発し、当町を挟むように南東流し、町の中心部を東流する大淀川の支流本庄川と合流する。綾町境の釈迦しやかヶ岳(八三〇・六メートル)法華岳ほけだけ薬師寺のある法華岳(二七八メートル)の稜線と連なる。本庄台地東端には縄文時代早期の集石遺構などが確認されたかみはる遺跡がある。古墳時代の墳墓としては木脇塚原きわきつかばる地下式横穴墓群、本庄古墳群・本庄地下式横穴墓群、飯盛いいもり横穴墓群、六野原むつのばる古墳群・六野原地下式横穴墓群などがある。飯盛横穴墓群一七基は付近に所在する四基と合せて、昭和一九年(一九四四)本庄町古墳として県指定史跡となっている。また町の西部には森永もりながの化石群がある。

律令制下では諸県郡に属し、県田あがた郷・八代やつしろ郷が当町域に比定される。県田郷の郷名はヤマト王権が設定したアガタに由来し、おそらく現在の本庄を中心とする一帯であったとみられ、同郷に諸県郡家が所在したと考えられる。当町域を駅路が通っていたことはほぼ確実で、県田郷に駅が置かれた可能性もある。この時代の集落遺構としては西下本庄にししたほんじよう遺跡がある。鎌倉時代初期、豊前宇佐宮領の諸県庄・伊佐保いさほ別符が成立していた。諸県庄の伊佐尾いざお衾田ふすまだ富松とみまつは宇佐宮領の核であったとみられ、庄内には日向国在庁官人系の那珂氏が収納使などの職を継承し、古くから天台宗萬福まんぷく寺があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国富町」の意味・わかりやすい解説

国富〔町〕
くにとみ

宮崎県中部,大淀川の支流本庄川の流域にある町。1956年本庄町と八代村が合体して発足。1957年木脇村を編入。江戸時代,本庄地区は延岡藩に属したのち天領となり,八代地区は薩摩藩,木脇地区は高鍋藩に属していた。北西部は九州山地の前山で国有林が多く,本庄川流域では米作が行なわれるほか,特にキュウリピーマンなどの施設園芸が発達。本庄川上流の綾川の総合開発によって台地面では畑地灌漑が行なわれ,サトイモ,ダイコンの生産が多い。中心集落の本庄では本庄紙を特産していた。本庄古墳群(国指定史跡)をはじめ,万福寺,法華嶽薬師寺などの名刹,本庄の石仏など遺跡が多い。面積 130.63km2。人口 1万8398(2020)。

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