日本歴史地名大系 「八田山」の解説
八田山
はつたやま
南北朝期から史料に散見する地名で、所領の単位でもあった。半田川の流域、ほぼ現在の半田町域がその範囲と思われ、八田庄ともいった。正平六年(一三五一)七月一八日付の出雲守時有奉書(小野寺文書)に「阿波国八田山三分一内半分」とみえ、渡辺宮内丞に八田山三分の一の半分が恩賞として与えられている。同文書は出雲守時有の奉書という形式からみて、阿波南朝方の指揮者である粟野三位中将の御教書と考えられる。なお「徴古雑抄」には祖谷山渡辺氏の所蔵文書として前掲奉書とまったく同内容の同月七日付の出雲守時資(時有か)奉書が収録されているが、渡辺宮内丞が八田山三分の一の半分を七月七日・一八日の二度にわたって与えられたものか、同一の文書であるが収録の折に誤りが生じたものなのかは判然としない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報