日本歴史地名大系 「八田庄」の解説 八田庄やたのしよう 石川県:小松市旧江沼郡地区矢田村八田庄現矢田(やた)町・矢田野(やたの)町・矢田新(やたしん)町を遺称地とし、三湖(さんこ)台とその周辺の柴山(しばやま)潟東部平地一帯に比定される中院家領庄園。文治二年(一一八六)九月五日の源頼朝下文案(平松文書)では、隣接する額田(ぬかた)庄について「件庄加納八田・額田両郷是也」とみえ、国衙在庁と目される板津介成景や宗親法師、さらに鎌倉殿勧農使(守護人)比企朝宗の代官平太実俊や地頭を自称する加藤次成光の侵犯が停止されている。また加納八田とあるように、一一世紀末に額田郷の郷域を中心に立庄された額田庄の住人の出作や、公領である八田郷住人の額田庄領主(院)への寄人化などにより、拡大された加納地(付属領)であった。したがって「額田・八田両庄」「額田庄并加納八田庄」「額田庄・加納八田庄」のように額田庄と一括して、または「加納」の文字を付して呼称されることが多い。建長四年(一二五二)八月、中院通成の所領となり(「中院家領之事」中院文書)、同六年庄号を受け八田郷から八田庄となった(白山宮荘厳講中記録)。文和四年(一三五五)二月三日足利義詮によって預所職を除き中院家の領有が安堵された(「足利義詮御判御教書」中院文書)。同年四月一七日、後光厳天皇は当庄を新日吉社に寄進しているが(「後光厳天皇綸旨」妙法院文書)、この寄進は本家職とみられる。「額田・八田両庄」は幕府料所であったが、延文二年(一三五七)停止され、守護を通じて領主に安堵を通告している(同年二月一三日「室町幕府奉行人奉書」森文書など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報