内久宝寺町
うちきゆうほうじまち
[現在地名]東区内久宝寺町三―四丁目
江戸町・和泉町の南にある。東西に延びる久宝寺橋筋の両側町で、西は農人橋材木町と住吉屋町の西筋。西から南北に内骨屋町筋・御祓筋が通る。町名は明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図にみえる。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三七・役数四三役で、うち年寄分一役が無役。年寄は河内屋長右衛門。豪商として知られる鴻池家は、元和五年(一六一九)から延宝二年(一六七四)の間当町を本拠とした(→鴻池本邸跡)。享保の飢饉の際の施行人は年寄川崎屋了閑など三一名(仁風一覧)、天保の飢饉では年寄糀屋与兵衛など一二名(天保仁風便覧)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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