内藤ジュリア(読み)ないとう・じゅりあ

朝日日本歴史人物事典 「内藤ジュリア」の解説

内藤ジュリア

没年:寛永4.2.11(1627.3.28)
生年永禄9頃(1566)
キリシタン時代の修道女内藤如安の妹。丹波身分ある人に嫁いだが,22歳のころ死別。熱心な阿弥陀信仰比丘尼となったが,イエズス会修道士からキリスト教の教えを聞いて慶長1(1596)年ごろ洗礼を受け,ジュリアと名乗った。その後間もなく,京都に日本最初の女子修道会「ベアタス会」を創立し,宣教師に代わって公家,領主の婦人たちなど高貴な女性たちに熱心に布教した。同19年のキリシタン追放令によって他の会員と共にマニラに流されたが,同地でも修道会を続け,最後まで会長の任にあり,寛永4(1627)年没した。<参考文献>片岡瑠美子『キリシタン時代の女子修道会―みやこの比丘尼たち』

(片岡瑠美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤ジュリア」の解説

内藤ジュリア ないとう-ジュリア

1566?-1627 織豊-江戸時代前期のキリシタン。
永禄(えいろく)9年?生まれ。22歳で夫と死別し仏門にはいり,慶長元年ごろ洗礼をうけジュリアと名のる。京都で布教し,11年日本最初の女子修道会ベアタス会をつくる。19年幕府の禁教令により兄の如安(じょあん)や高山右近らとともに呂宋(ルソン)(フィリピン)に流され,寛永4年2月11日同地で死去。62歳?

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の内藤ジュリアの言及

【内藤如安】より

…近世初期のキリシタン武士。飛驒守,徳安とも称する。如安は洗礼名ジョアンJoãoに由来する。丹波国八木の城主であったが,1587年(天正15)伴天連追放令のさい信仰を守って所領を捨て,キリシタン大名小西行長に仕えた。文禄・慶長の役では行長とともに渡鮮し,明との講和交渉にあたった。関ヶ原の戦後,一時,加藤清正の下にあったが,高山右近の斡旋で前田利長に仕えた。1614年(慶長19)キリシタン禁教令によって,右近らとともにマニラに追放され同地で没した。…

※「内藤ジュリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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