フィリピン(読み)ふぃりぴん(英語表記)Philippines

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィリピン」の意味・わかりやすい解説

フィリピン
ふぃりぴん
Philippines

太平洋と南シナ海の間のフィリピン群島からなる島嶼(とうしょ)国家。正称はピリピナス共和国Republika ng Pilipinas。国名は16世紀中ごろスペインの探検家が皇太子フェリペにちなんで名づけた群島名フィリピナスによる。首都はマニラ(1948~76年はケソン・シティ)。面積は30万平方キロメートル、人口8857万(2007)。

[高橋 彰]

自然

フィリピンは7100の島からなるが、島名をもつのはそのうち3144である。主要なものはルソン島とミンダナオ島、その間に散在するビサヤ諸島のサマル島、レイテ島、マスバテ島、ボホル島、セブ島、ネグロス島、パナイ島および西のパラワン島であり、ルソン島とミンダナオ島で総面積の66%、主要な11島で92%を占める。山がちで、国土の52%は10度以上の傾斜地であり、主要な平地はカガヤン川、アグノ川、パンパンガ川、ビコール川、アグサン川、ミンダナオ川などの大河の下流に広がるにすぎない。おもな山脈は第三紀造山運動によって形成されたもので、ほぼ南北に連なる。環太平洋火山帯に位置し火山が多い。最高峰はミンダナオ東岸のアポ火山(2954メートル)で、ルソン島南端のマヨン火山は完璧(かんぺき)なコニーデ(円錐(えんすい)火山)の美しさで知られる。マニラ南方のタール火山のように観光地としてにぎわうところも多いが、ルソン島中部のピナツボ火山は1991年以来噴火を繰り返し、火山灰と泥流によって山麓(さんろく)の住民に甚大な被害を与えた。

 気候はおもに熱帯モンスーン(季節風)気候に属する。年降水量は全国平均約2400ミリメートル、ビサヤ諸島東岸では4000ミリメートルに及ぶ。概して東岸部とルソン島山岳地方で降水量が多く、南西部とビサヤ諸島中部で少ない。降水の季節分布は、北東と南西のモンスーンおよび台風によって決まる。マニラなどルソン島西岸では6~10月が雨期で、降水の80%はこの時期に集中する。一方東岸ではとくに顕著な乾期はないが11~1月に降水が多い。ミンダナオ島以外の島々はしばしば台風に襲われる。

[高橋 彰]

歴史

16世紀ごろのフィリピンには統一的権力は存在せず、小地域の首長の連合が形成されていた。単位社会としてのバランガイは、首長(ダト)とその一族、平民(自由民)、隷農・家内奴隷の3階級から構成され、自給経済を営んでいた。フィリピンと外部世界との接触は植民地化であった。1521年にマゼラン(マジェラン)がビサヤ諸島に到達したあと、1565年からスペインによるメキシコ経由の植民地支配が始まったが、当初はアジア交易の拠点としての意味が強く、メキシコのアカプルコとマニラを結んでガレオン船が往復した。スペインが植民地経営に積極的になるのは18世紀後半になってのことであった。18世紀末から砂糖、タバコ、マニラ麻、インジゴなど輸出向け商品作物の栽培が盛んになるが、それは1834年のマニラ開港、スエズ運河開通(1869)などによって急速に展開し、モノカルチュア(単一商品作物栽培)型経済の形成が進んだ。この動きは国内の地主・商人層に富裕な家族をつくりだし、その子弟のなかにはヨーロッパ留学などで自由思想に触れ、民族自治、独立を主張する者も現れた。しかし、ラテンアメリカの植民地のほとんどを失ったスペインは、むしろフィリピン支配を強化しようとした。

 1890年代後半から、フィリピン革命とよばれるスペイン支配への武力反抗が始まり、1899年にはアジアで最初の共和国が誕生した。そのころキューバ独立問題からスペインと開戦したアメリカはフィリピンを占領し、パリ条約によってフィリピン諸島の割譲を受けたが、独立を要求するフィリピン革命軍を鎮圧するのに数年を要した。アメリカ統治のもと、フィリピンの経済は対米輸出を軸に発展を遂げ、マニラは東南アジアのなかでもっとも繁栄した都市となった。ダバオが日本人の手によって開発されたのもアメリカ統治下においてであった。アメリカがフィリピン領有に踏み切ったのは、19世紀末のアメリカが帝国主義段階に達していたからであったが、当時の国際関係のもとで、領土的野心を否定し、フィリピンを民主主義主権国家に育成することを領有の目的として掲げることを余儀なくされていた。しかも、その後フィリピン人の間から独立要求が高まり、さらに1920年代末からの大恐慌が、国内に農業部門を抱えるアメリカをしてフィリピン領有を重荷と意識させるに至った。こうして、1934年にフィリピン独立法がアメリカ議会を通り、1946年の独立への準備として、1935年フィリピン自治政府が大統領ケソンのもとに発足した。

 1941年に始まった太平洋戦争に際してフィリピンは日本軍の占領下に置かれたが、独立の約束を得ていたフィリピン人にとって日本軍は侵略者であったから、多くの抗日ゲリラが組織された。とくに戦争末期のフィリピンはアメリカ軍による反攻の目標とされたためもっとも激しい戦闘の場となり、フィリピン人は計り知れない被害を被った。この事実は長く日本とフィリピンとの関係に影響を及ぼした。1946年7月4日、フィリピンは独立を達成した。

 独立後のフィリピンの政治形態はアメリカに範をとったもので、直接選挙による正副大統領、上下二院からなる議会、3段階の裁判所をもち、三権分立を旨とし、リベラル党ナショナリスタ党の二大政党が交互に政権を担当した。しかし、独立が恩恵的に与えられたものであっただけに、他のアジア諸国とは違ってナショナリズムが旧宗主国に向けられることはなく、外交においても対米追随姿勢がつねに顕著だった。近隣外交に積極的になったのは1960年代に入ってからのことである。

 フィリピン政治のもう一つの特質は政治支配層が固定性を示していることである。19世紀後半の商品農業の展開のもとで成長したメスティソ(混血)を中心とする大地主層は、アメリカ統治下にもエリートとしての地位を保ち、対米農産物輸出の増大を背景に産業資本家としての性格も強めた。彼らは日本軍の占領下にも支配的地位を保ち、独立後は政治権力を握り、天然資源の開発をわがものとし、経済成長を背景に銀行業に乗り出し、アメリカおよび日本の外国資本との提携を深めていった。このような特権グループの中心をなすのは、50~100の家族である。ルソン島、ネグロス島、パナイ島のサトウキビ農園主から出発した者が多く、スペイン系の血をもち相互に姻戚(いんせき)関係で結び付いている。この国の政治の中枢にあった24人の上院議員の多くは、これらの家族から出ていた。

 このような政治状況を揺るがしたのが、大統領マルコスによる戒厳令政治であった。フェルディナンド・マルコスは北イロコス州の代議士の子に生まれ、若くして下院議員となり、レイテ島の大地主の一族と結婚することで上院議員に出馬するきっかけをつかんだ人物である。リベラル党内で大統領候補の指名を得られなかったマルコスは、ナショナリスタ党に移り、1965年指名を得て当選した。マルコスは経済開発を最大の看板に、外資導入、工業化、農業開発、土地改革などに積極的に取り組み相当の成果をあげ、1969年、この国の大統領として初めて二度目の当選を果たした。その後、彼は長期政権を実現するために憲法の3選禁止規定の廃止や責任内閣制の導入などを試みたあげく、1972年9月に戒厳令を布告して、議会を停止し、有力な政敵を逮捕し独裁体制を確立した。

 こうしてフィリピンはアメリカ型民主主義に決別を告げたが、マルコスは強権支配を正当化するため、特権層による寡頭支配を廃絶して大衆を基盤とした新社会を建設することが戒厳令の目的であるとし、土地改革、国民投票、農民労働者代表の国政参加など大衆迎合の姿勢も示した。戒厳令体制は、安定した政治を求めていた国外・国内の企業家層の要望にこたえたものでもあった。アメリカ、日本などの外資は急増し、後述のようにフィリピン経済は活況を呈した。またこの時期にフィリピン政治は、それまでたてまえにおいて欠如していた土着原理を求めるようになった。しかし、1970年代後半に入ると、独裁政治のもつ矛盾と腐敗が露呈し始めた。大統領一族や側近による経済支配と私物化が露骨になり、国民の批判は高まる一方であった。そして第二次オイル・ショック後に経済の沈滞が始まったころから、旧特権グループによる反撃が強まった。

 1983年8月、死刑判決を受けながらも病気療養を理由にアメリカ亡命を認められていた元上院議員のベニグノ・アキノがマニラ(現ニノイ・アキノ)空港で暗殺された。この事件をきっかけに国内での反政府感情が一挙に爆発し、国際的なマルコス独裁体制批判が急激に高まった。アキノ事件を契機にフィリピン経済は危機に陥った。政治不安が高まるなかで資本逃避が進み、海外からの資金流入は途絶した。アメリカをはじめとする先進国の援助も減少した。好況期にはマルコスを支持した企業家層の政権批判が強まった。

 1986年2月に大統領選挙が行われた際、反マルコス派はコラソン・アキノ夫人を大統領候補に立て、政権側と激しい選挙戦を展開した。選挙管理委員会の集計に基づいて国民議会はマルコスの当選を宣言したが、野党側は自分たちの集計結果を基礎にアキノの当選を主張し、就任式を強行した。その間、マルコス政権の国防相エンリレと参謀総長ラモスが政権を離脱し、エドゥサ(EDSA)通りの国防省本部に立てこもるという事態が生じた。マルコスの政府軍による鎮圧からエンリレらの反乱軍を守ろう、というシン枢機卿(すうききょう)のラジオ放送にこたえて、多数の市民が3日余り、国防省の周囲に集まった。駐留米軍も政府側空軍の動きを牽制(けんせい)した。マルコスは2月25日、家族と側近を伴い、米軍機でフィリピンを離れハワイに向かった。こうして、20年に及ぶマルコスの長期政権は終わりを告げた。

 この政変はエドゥサ革命、あるいはピープル・パワー革命とよばれることも多い。この政変をもたらしたエネルギーは長期独裁政権の腐敗と失政に対する国民の怒りに発するものであるが、それを指導したのは旧特権層と国内企業家層で、また成長しつつあった中間層が新しい政治要因となった。さらにカトリック教会とアメリカの役割も見逃せない。

[高橋 彰]

政治

1986年2月に発足したアキノ政権は民主主義回復と経済再建を唱え、新憲法を制定し、上下二院制議会を復活させた。しかし、クーデターが繰り返され、経済基盤の再建は遅れ、経済成長はなかなか軌道に乗らなかった。

 1992年にフィデル・ラモスFidel V. Ramosを大統領とする政権が発足し、アキノ政権時代にクーデターを繰り返した関係者や共産勢力を抑え、南部ミンダナオの独立運動を展開していた最大の反政府イスラム・ゲリラである「モロ民族解放戦線(MNLF)」との和平合意も達成し、政治的安定をもたらすことに成功した。これを基盤に、経済成長を最優先課題として経済改革に着手し、電力、水道などの国営企業の民営化、税制優遇措置による外資の積極的導入を進めたことなどにより、マイナスだった経済成長率を5%以上に引き上げた。

 1998年の任期満了に伴い、続いてジョセフ・エストラダJoseph Estradaが貧困対策を掲げて大統領に就任した。フィリピン独立後9人目の大統領となったエストラダは、フィリピンでの国民的人気を誇る俳優であった経歴をもち、自らも中流家庭に生まれていることから、経済改革の流れから疎外されていた大衆の人気を集めた。

 エストラダ政権下では、ラモス政権が進めてきた経済政策を継続し、1997年に東南アジアを襲った通貨危機を乗り越え、1998年の経済成長率をマイナス0.6%にとどめる健闘をみせる一方、公約として掲げた貧困対策は、財政赤字などから思うように進まなかった。エストラダは汚職や横領の疑惑により、2001年1月辞任に追い込まれた。これに伴い、副大統領のアロヨGloria Macapagal Arroyoが大統領に就任した。

 これらマニラを中心とした共和国体制内の政権をめぐる争いのほかに、現代政治において注目すべき二つの動きがある。一つは左翼反体制運動の成長である。従来は合法的な階級政党が不在であったため、国政に労働者や農民の立場が反映されることはめったになかったが、合法的な左翼政党が認められるなど、新しい流れがみられる。長い間社会の宿弊であった農村問題は、マルコス政権期に始まった土地改革のある程度の進展と経済開発成果の農村部への波及によって、若干改善された。また、都市中間層の拡大傾向は注目されるが、基本的な階層格差の懸隔が縮んだとはいいがたい。もう一つは少数民族の武力抗争の高まりである。古くからキリスト教徒の圧力に反抗してきた南部のイスラム教徒やルソン島山岳地方の山地部族民の反発は、自治権拡大さらには分離運動へと高まり、武力闘争が続いていた。ラモス政権はこれらの反政府組織との交渉を続け妥協にこぎつけたが、反面、イスラム過激派の先鋭化もみられる。反体制運動が1990年代なかばから鎮静化の方向にあることは認められるが、どこまで社会の安定が築かれたかについての即断は許されない。

 外交面での大きな変化は1991年に米軍基地が返還され、米軍がフィリピンから撤退したことである。独立後、一貫して続いた外交的、軍事的アメリカ一辺倒からの離脱といえる。フィリピン人の価値観からアメリカ志向が消えるわけではないが、ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)などとの近隣外交が重みを増している。

 議会(国会)は上院24議席、下院275議席。上院議員の任期は6年で、連続3選は禁止。下院議員の任期は3年で、連続4選は禁止されている。下院議員のうち20%は比例代表政党制、残りは小選挙区で選出される。また、大統領の任期は6年で、再選は禁止となっている。

 地方行政制度は、全国はマニラ首都域と81州からなり、その下に市・町が置かれ、さらにバランガイとよばれる地域共同体レベルの行政単位に分けられる。これら3段階の自治体はそれぞれ首長と議会をもつ。また、州は16地域にまとめられているが、このなかには、少数民族の分離運動への妥協策として特別立法により設けられた北部のコルディリエラ行政地域と、南部のムスリム・ミンダナオ自治地域が含まれる。

[高橋 彰]

経済

植民地としての歴史の長かったフィリピンは、農林鉱産品などの第一次産品の輸出に頼るモノカルチュア(単一商品作物生産)型経済構造を与えられていたが、独立後はそれからの脱却を目ざして工業化に努めてきた。もともと産業資本家の形成が東南アジアでも早かったうえ、開放型の経済政策をとって外資導入を図り、アメリカとの間の特恵貿易関係のもとで第一次産品輸出も伸びたので、1950年代、1960年代には順調な経済発展がみられた。日本からの賠償も資本形成に貢献した。1972年に始まった戒厳令体制の下で、治安の回復や労働運動の規制が進んだので、外国資本の流入が増大し、国内企業家の投資意欲も高まった。製造業の成長は目覚ましく、産業構成比は1970年の18%から1980年は24%、1997年は32%へと増えた。農業・工業・サービス業の3部門の構成比は、1970年の31・25・44から1985年の29・32・39、1997年には20・32・48へと推移した。

 貿易にも大きな変化がみられた。砂糖、ココナッツ関連商品、木材、銅鉱など植民地時代からの輸出品に、非伝統的輸出品とよばれるものが加わった。半導体などの電気・電子機器部品、衣料、化学品、機械類などの製造業部門によるものだけで総輸出額の77%(1995)、それにバナナ、魚類(エビなど)、焼結鉄、コーヒーなどを加えると86%に及ぶ。その反面、ココナッツ関連商品と砂糖類はあわせて9%まで落ち込んだ。注意しなくてはならないのは、製造業部門の輸出が大きくなっても、資本財や原材料、半製品などの輸入が大きくなるから、貿易収支を部門別にみると、製造業は大きな赤字で、外貨獲得上、農業部門が格段に大きな役割を果たしていることである。貿易相手国にも変化がみられた。独立後一貫してアメリカが最大の相手国であったが、1960年代末から日本が肩を並べるに至り、1970年代からはアジア諸国の比率が高まり、中東諸国との貿易も伸び、貿易の多角化が進んだ。貿易外の外貨収入源として1970年代から急増したものに海外出稼ぎがある。海外契約出稼ぎ者は陸上勤務が49万人、船員が17万人(1995)で中東、アジアをはじめ世界各地で就労しており、その送金額は30億ドル、実際はその2倍を超えるとみられ、外貨獲得に重要な役割を担った。

 しかし、フィリピン経済は1980年代前半に停滞に陥った。1979年の第二次オイル・ショックとそれに続く世界的な不況のもとで経済成長は鈍化し、1982年に成長率は1%台まで下がった。第一次産品の輸出量は減り、輸出価格の低下にもかかわらず輸入原材料価格は上昇し、金利もあがって対外支払いは急増した。国内の不況は深刻になる一方であった。1983年のアキノ元上院議員暗殺事件はフィリピン経済を一挙に危機に陥れた。政治不安が深まるなかで、短期資金の逃避と投資の回収が始まり、海外資金の流入は止まった。外貨準備は急減し、債務支払い不能、輸入削減が続いた。工場閉鎖が増え、失業者は巷(ちまた)にあふれ、インフレは50%に及んだ。1984年、1985年に経済成長率はマイナス6.8%、マイナス3.8%にまで落ちた。

 アキノ政権は前政権の「負の遺産」を負って発足した事情もあって、経済再建はなかなか進まなかった。クーデターの頻発は外国投資を躊躇(ちゅうちょ)させたし、長期にわたる国民経済のための基幹施設に対する投資(インフラ関連投資)の遅れもあって、電力不足が顕著で、工業生産への影響は著しく、市民生活にも大きな困難を与える状況が長く続いた。周辺の東南アジア諸国が1980年代後半から高度経済成長を続けているなかで、フィリピンの実績は見劣りが著しく、1991年にはマイナス成長を記録するほどで、「アジアの病人」とまでよばれた。しかし、外資法の改正や外国銀行法などによる自由化を進め、外資の誘致を図り、また、公共事業分野での民間部門の活用を進めた結果、1993年ごろからようやく経済が上向き始めた。東南アジア諸国内で、労働力と用地の獲得が困難になってきた時期でもあったため、失業率が高く(8~9%台)、比較的高学歴の労働力が豊富で、用地も得やすいフィリピンは、日本や香港(ホンコン)などからの投資を引き付けた。マニラ近郊やセブ島その他に多数の工業団地が建設され、また、米軍から返還された基地の跡地の工業団地化が進められた。とくに、海軍基地があったスービック湾には自由貿易区が設けられ、香港に匹敵する貿易産業流通の大拠点の育成を目ざして、工業とサービス関連企業の誘致が進められた。

 1997年にアジアを襲った通貨危機では、フィリピンも大きな被害を被ったが、1998年の経済成長率をマイナス0.6%にとどめるなど、健闘した。

 2000年以降、アメリカ、日本、韓国などの工業先進国が半導体などの電子部品の製造工場をフィリピンに移転するに伴い工業化が進み、経済成長率は7.3%(2007)まで上がり、2000年から11%台であった高い失業率も2007年には7.3%に下がった。2000年に790億ドルであった国民総生産(GNP)は、2007年には1576億ドルと倍増し、1人当りGNPも1051ドルから1777ドルと1.7倍になっている。

 農業は就業人口の37%を占めており、フィリピンの主要産業である。貿易収支では農産物が最大の黒字を生み、1980年代なかばの経済危機に際しても農業は経済の底を支える力を発揮した。農地1220万ヘクタール(2005)のうち、食糧作物では米が407万ヘクタール(収穫面積。以下同)、トウモロコシ244万ヘクタール、商品作物ではココナッツ324万ヘクタール、サトウキビ37万ヘクタール、マニラ麻12万ヘクタール、タバコ3万ヘクタールである。フィリピン農業の特質の一つは、早くからサトウキビやパイナップルなどで、企業的大農園がみられたことであった。1960年代後半から日米の外国資本の主導でダバオ地方に大規模なバナナ農園が開かれ、現在でも主として日本を市場とした生産を行っている。

 フィリピン農業の生産性は低く、稲作でいえば長い間東南アジアでも最低のレベルにあった。この低生産性の要因の一つは地主制で、分益小作制と農家負債が大多数の農民に貧困を強い、農民運動や農民反乱の原因ともなった。

 本格的な土地改革が行われたのは1972年からである。戒厳令下に大統領マルコスが実施した「農民解放令」は、米とトウモロコシの作付地を対象として、地主の保有地を7ヘクタールに制限し、それ以上の農地は小作農に年賦で買い取らせて自作農とすること、7ヘクタール以下の地主の小作地については分益小作関係から定額借地関係に変えることによって、農民の所得を向上させること、などをおもな内容としたものであった。

 この実施には多くの問題も残されたが、少なくとも米とトウモロコシの作付地については大中の地主をなくし、中部ルソン平野のような小作率の高い米作中心地の小作農家を、自作農や定額借地農に変えるうえで効果があった。1970年代の農業技術革新の進展もこの土地改革に支えられていた。

[高橋 彰]

社会

フィリピンには2万年以上前からネグロイド系の住民が住み着いていたが、その後、西および南からの民族移動が繰り返された。住民の90%を占めるのはマレー人と称されるなかの新マレー系の民族で、さらに中国、スペイン、日本、アメリカなどからの流入があったため、民族構成はきわめて多様なものとなり、80以上の民族と134の言語グループを数える。おもな言語グループは、セブ、タガログ、イロカノ、ヒリガイノン、ビコル、サマル・レイテ、カパンパガン、パンガシナンの8グループである。

 人口増加率は1950年代、1960年代には3%を超えていたが、1980年代前半には2.5%、2000年以降は2%となっている。全人口の52%は農村に居住している。1970年以降の著しい傾向はマニラ首都圏への人口集中で、首都圏の人口は全人口の12%を超える。流入者のなかには、スラムに滞留して劣悪な労働条件のもとに、雑多な仕事で生計をたてている者も少なくない。もう一つの人口の流れは、ルソン島北部やビサヤ諸島の人口稠密(ちゅうみつ)地方から、ミンダナオ島その他の未墾公有地への入植である。その多くは不法占拠者とされていたが、1980年ころからは政府もこの人々の権利を保護する方向を打ち出している。

 住民の階層構成は典型的な二階層社会をなしていた。ごく少数の特権エリートが政治、経済、社会の実権を握り、大多数の国民は無権利な状態に置かれているうえ、中間層の形成が遅れているため二つの階層の間の差は大きく、しかもその間の社会移動のための階梯(かいてい)が用意されていない。マルコス政権の開発優先政策のもとで産業は発展し、中小企業家や大企業職員などの中間層が以前よりは成長して、1986年の政変でも役割を果たした。

 もう一つの特徴は、東南アジア諸国の多くに共通することであるが、社会構造が双系制親族関係を基礎としていることである。親族組織のうえで男系、女系の間の差がほとんどない。財産相続は男女均分が原則となっているし、結婚後の居住も夫方、妻方のいずれかに定まっているわけではない。親族内の個人と個人の関係も、単系親族原理に基づく日本のように家系上の配置によって定まっているのではなく、かなり任意なものとなっている。だから、親族関係はつねに拡散する傾向をもっている。そのため、有力な個人との間に強いつながりをつくることで経済的、社会的な庇護(ひご)を得ようとする。親族の場合ならその個人との関係を密にすることが必要となるし、非親族の場合は、カトリック儀礼の教父子関係などを利用した擬制親族関係や、親分・子分の庇護・奉仕関係などで安定を図ることになる。

[高橋 彰]

文化

「スペインはカトリシズム、アメリカは民主主義と教育をもたらした」というのは、フィリピン人がよく使うことばである。国民の大半がキリスト教徒であり、英語が広く用いられているし、欧米風のエチケットを重んじるなど、他の東南アジア諸国に比べて外来要素が濃いことが容易に認められる。フィリピン人も自分たちがアジアより欧米の文化を強く受け入れていることを強調することが少なくない。しかし、外来要素は表面的なもので、文化の本質は東南アジアの伝統のうちにある。

 宗教はカトリック教徒がもっとも多く83%を占め、その他の諸派をあわせるとキリスト教徒は93%に及ぶ。イスラム教徒はミンダナオ島、スル諸島、パラワン島に住む。また山地の部族民には伝統的な精霊信仰を守っているものが多いが、近年はキリスト教の布教も進んでいる。イスラム教徒の数は統計では5%であるが、実際はもっと多いとみられる。フィリピンのカトリック教徒、とくに中産層には敬虔(けいけん)な信者が多く、毎日の祈りと日曜の礼拝を欠かさない。しかし、彼ら自身は意識していないが、フィリピンにカトリック信仰が浸透していく過程で、土着の精霊信仰と重層化し、フォーク(民俗的)・カトリシズムの形がとられた。フィリピンのカトリック信者の日常生活において、とくに大衆は行動選択の基準が土着要素から強く与えられていることはよく指摘される。

 アメリカの統治下で教育の目覚ましい普及がみられたこともよく知られている。とくにアメリカ式初等教育が全国の村々にまで広がり、現在では小学校の就学率は100%に近い。初等教育(小学校6年間)は義務教育。中等教育は4年間で他の国より短いが、高等教育が早くから盛んで、大学、専門学校などの高等教育機関数は1605校(2004)となっている。そのうち約90%を私立学校が占めている。

 識字率は94%(2007)に達しているが、アメリカ式の初等教育の普及は、一面でこの国の言語状況に特異な様相を与えることになった。20世紀初めにアメリカが小学校教育を英語で行う方針を導入して以来、この国の教育言語はすべて英語となったので、小学校を出ていればだれもが英語を使えるはずだというたてまえができたのである。これは独立後もそのまま継承された。他面、1937年に国語として認められたピリピノ語(ルソン島中南部のタガログ語を基礎とする。後にフィリピノ語と改称されている。)の普及の努力は十分といえなかった。そのため、科学技術はもちろん、学問、文芸に至るまで英語で行われ、立法、司法、行政をはじめ新聞、放送など国民的情報のほとんどすべては英語を知らねば接近できない状況となった。このため、英語を習得できた者とそうでない者との間の情報をめぐる格差は大きい。英語が本当に普及したのなら問題はないが、十分に使いこなせるのはその10~15%程度とみられる。このような言語の階層的、地域的分断状況にも1970年代以降新しい動きがみられる。戒厳令体制以後の土着原理志向は、言語ナショナリズムの動きを強め、フィリピノ語(ピリピノ語)の利用が行政、教育、マスコミなどの各分野で広まっている。

[高橋 彰]

日本との関係

室町時代の末期から江戸時代の初めにかけて、朱印船などによる日本とルソン島との交易が行われ、マニラに日本人町もつくられたが、鎖国によって往来はとだえた。明治以後は、20世紀初めのダバオのマニラ麻農園の開発など、日本の資本進出が行われた。太平洋戦争における日本軍の侵攻と占領の記憶は、長くフィリピン人の反日感情として残った。1956年(昭和31)日比賠償協定が締結され、国交を樹立、以後両国の通商関係は年を追って発展した。日本はフィリピンにとってアメリカに次ぐ第2位の貿易相手国となっており、トップクラスの投資国、最大の援助供与国でもある。

 また、在日フィリピン人は約19万人(2005。外国人登録者数)に達し、フィリピン人出稼ぎ者や「花嫁」が日本各地にみられたり、フィリピンへの観光客や派遣社員も多い。戦前フィリピンに在住した日本人の子孫の訪日も実現した。しかし、第二次世界大戦期に日本がフィリピン人に与えた多大の苦痛に対しては、いまだ償い残されたものも少なくない。

[高橋 彰]

『浅野幸穂著『フィリピン――マルコスからアキノへ』(1991・アジア経済研究所)』『榊原芳雄著『フィリピン経済入門』(1994・日本評論社)』『綾部恒雄他編『もっと知りたいフィリピン』(1995・弘文堂)』『池端雪浦著『近現代日本・フィリピン関係史』(2004・岩波書店)』『川中豪編『ポスト・エドサ期のフィリピン』(2005・アジア経済研究所)』『鈴木静夫著『物語フィリピンの歴史』(中公新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フィリピン」の意味・わかりやすい解説

フィリピン
Philippines

正式名称 フィリピン共和国 Republikañg Pilipinas。
面積 30万km2
人口 1億1110万9000(2021推計)。
首都 マニラ

アジア大陸の南東方,南シナ海太平洋の間にある 7000以上の島からなる国。おもな島は北部のルソン島と南部のミンダナオ島で,その間にビサヤ諸島があり,サマル島ネグロス島パナイ島レイテ島セブ島ボホル島マスバテ島の 7島が大きい。ほかにミンドロ島パラワン島などがある。多様な地殻運動で形成されたうえに環太平洋造山帯に属し,地形は複雑で多くの火山がある。熱帯季節風気候に属し,5~10月が雨季,11月~2月が乾季で,南シナ海に面する西海岸で顕著。6~12月は台風の襲来が多い。乾季は過ごしやすいが,セブ島の諸都市,ダバオ,マニラなどでは気温が 38℃にまで達する。農業では,主食の米,トウモロコシ,輸出用のサトウキビ,コプラマニラアサバナナタバコなどを産する。漁業が広く行なわれるが,自給用の小規模なものが多い。工業では電子機器の製造や製糖など食品加工,繊維などが主。主要輸出品は電子機器や機械類の部品,食料品や衣類など。住民は大部分がマレー系で,80種近くの言語集団に分かれる。住民の 3分の1が使用する,タガログ語を基本としたフィリピノ語と英語が公用語。長くスペインの植民地であったため,人口の約 90%がキリスト教のカトリック信者。大土地所有制度が残存し,貧富の差が大きい。南部ではモロ族と呼ばれるイスラム教徒が分離独立運動を続けている(→モロ民族解放戦線)。東南アジア諸国連合 ASEAN原加盟国。(→フィリピン史

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報