日本歴史地名大系 「内藤新田」の解説 内藤新田ないとうしんでん 東京都:国分寺市内藤新田[現在地名]国分寺市内藤一―二丁目・日吉町(ひよしちよう)一丁目・同三―四丁目・戸倉(とくら)二丁目・富士本(ふじもと)一丁目、府中市住吉町(すみよしちよう)四丁目戸倉新田の南にあり、東は恋ヶ窪(こいがくぼ)村、南は本宿(ほんしゆく)新田(現府中市)、西は下谷保(しもやぼ)村(現国立市)。武蔵野新田の一。本宿村(現府中市)の内藤氏が享保九年(一七二四)開発地の割渡しを受け開墾した。当初は内藤氏の居住地にちなみ小野宮(おののみや)新田といったが、同二〇年頃内藤新田と改称。名主の内藤氏は天明五年(一七八五)村民からの強い要請により新田に移り住んでいる(「内藤新田大旧記」神山家文書)。開発は草分七軒が中心となって進められ、元文元年(一七三六)の検地で高一一二石余、皆畑の村となった(「新田検地帳」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報