改訂新版 世界大百科事典 「武蔵野新田」の意味・わかりやすい解説
武蔵野新田 (むさしのしんでん)
享保年間(1716-36)に開発を開始し,元文年間(1736-41)に検地を受けた武蔵野地方の新田の総称。《新編武蔵風土記稿》によれば武蔵野新田の村数は82であるが,それを78(戸数1327)とした文書もある。武蔵野には享保以前の新田もあるが,これらは武蔵野新田といわないのが普通である。武蔵野新田は享保期の他の新田と同じく,1722年7月,幕府が江戸日本橋に立てた新田開発奨励の高札を契機に成立したもので,典型的な畑作新田である。村請(むらうけ)新田が多いが,中には有力な農民や町人が数人集まって開発請負金を幕府に出し,割り当てられた開発地を入村者に売却して利を得るような場合もあった。新田入村者の大部分は周辺古村の下層農民であって,若夫婦に子ども1人といった小家族で入村した者が多い。開発初期の生活は非常に困難で,離村する者も少なくなかった。幕府は新田出百姓に対し農具料,家作料などの補助金を与えたが,他方では年貢取立ても厳しく,そのため新田はなかなか安定しなかった。39年川崎平右衛門(元来は武蔵国多摩郡押立村(現,府中市)の名主)が新田世話役に就任して〈夫食(ぶじき)普請〉(一定の食糧を与えて土木工事に従事させること)などの保護政策を打ち出し,以後しだいに安定におもむいた。新田の土壌は関東ローム層の赤土で耕作に適さなかったが,農民は大量に灰や糠(ぬか)を投じて赤土を肥沃な黒土に変え,明和(1764-72)ごろからようやく生産(麦,アワ,ヒエ,大豆などの雑穀)が向上し,やがてその生産力は周辺古村をしのぐようになり,関東地方では珍しく人口増大の一途を歩んだ。また西方の多摩山地や東方の江戸との流通も盛んとなり,山方へ雑穀類を出し,そこより木材や炭を入れる取引も進んだ。江戸へもしきりに雑穀や野菜を運び,雑穀商品地帯として知られるようになった。現在は東京西郊として住宅地化がはなはだしい。
執筆者:木村 礎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報