国分寺市(読み)コクブンジシ

デジタル大辞泉 「国分寺市」の意味・読み・例文・類語

こくぶんじ‐し【国分寺市】

国分寺

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「国分寺市」の解説

国分寺市
こくぶんじし

面積:一一・四八平方キロ

都のほぼ中央にあり、北は立川市・小平市、東は小金井市、南は府中市・国立くにたち市、西は立川市に接する。武蔵野台地の南端に位置し、古多摩川武蔵野台地を浸食して形成した国分寺崖線が北西から南東に横断し、市域を武蔵野段丘面と立川段丘面に区切っている。その標高差は約二メートルから約二〇メートル。崖線上の武蔵野段丘面を狭義の武蔵野とよぶ。北部を五日市街道(国道七号)、南部をJR中央本線が東西に通り、同線国分寺駅からは北へ西武鉄道多摩湖線、北西へ同鉄道国分寺線が分岐する。ほぼ中央をJR武蔵野線が南北に通る。

〔原始・古代〕

市域に源流域を有する川の開析谷や国分寺崖線の台地上縁辺部をおもに占地して、多数の旧石器時代・縄文時代の遺跡がある。旧石器時代の遺跡は内藤ないとう一―二丁目の多摩蘭坂たまらんざか遺跡や熊ノ郷くまのごう遺跡・殿ヶ谷戸とのがやと遺跡などが著名である。熊ノ郷遺跡では群馬県笠懸かさかけ町の岩宿いわじゆく遺跡発掘以前の昭和二三年(一九四八)、立川ローム層中から礫と黒曜石の剥片が先駆的な着目により採集されている。縄文時代の遺跡は早期の恋ヶ窪南こいがくぼみなみ遺跡、中期の恋ヶ窪遺跡、東恋ヶ窪一丁目の羽根沢はねざわ遺跡、ほん町二丁目などの本町遺跡、花沢東はなざわひがし遺跡、多喜窪たきくぼ遺跡などの集落跡が代表的である。国分寺駅至近の本町遺跡は明治二七年(一八九四)に鳥居龍蔵らにより「東京人類学会雑誌」に「武蔵国北多摩郡国分寺村石器時代遺跡」として報告され、「遺物包含層」などの用語を用いて遺跡のあり方が規定されたことで著名である。多喜窪遺跡では中期勝坂式終末期の蛇身把手付土器などが出土している。弥生時代・古墳時代の集落遺跡はみられない。弥生中期前半の土器片が野川に面する台地上から出土し、古墳時代前期の土師器甕・壺が国分寺崖線下低地で出土しているが、水稲可耕地を求めた状況を示すものと思われる。奈良時代には崖線斜面地に内藤新田ないとうしんでん横穴墓などの横穴墓が造営される。律令制下では多磨たま郡に属し、国府の地であった府中に隣接しているところから、天平一三年(七四一)に聖武天皇の国分寺建立の詔によって武蔵国分寺建立の地と定められた。武蔵国分寺跡は崖線を挟み台上と台下を選地し、崖線を南北に縦断する推定東山道武蔵路(現泉町二丁目・西恋ヶ窪一丁目部分は都指定史跡)に接し、東に僧寺、西に尼寺を配する。周囲には二寺の寺地もしくは関連遺跡が広範囲に広がっている。推定東山道武蔵路と重複する平安時代後半期の道路遺構の築成土中から、白鳳後期の銅造観音立像(都指定文化財)が出土した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国分寺市」の意味・わかりやすい解説

国分寺〔市〕
こくぶんじ

東京都中央部,武蔵野台地上にある市。 1964年市制。奈良時代に武蔵国分寺がおかれ,地名の由来となった。かつては畑作と養蚕を行う農村地帯であったが,第2次世界大戦後,住宅都市として急速に発展,人口も急増。武蔵国分寺跡 (史跡) ,東京経済大学,鉄道総合技術研究所,日立製作所の研究施設などがある。 JR中央線が東西に通り,西国分寺駅で武蔵野線が交差。国分寺駅から西武鉄道多摩湖線,国分寺線が分岐する。面積 11.46km2。人口 12万9242(2020)。

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