百科事典マイペディア 「円谷幸吉」の意味・わかりやすい解説 円谷幸吉【つぶらやこうきち】 陸上競技長距離走選手。福島県出身。須賀川高校卒業後自衛隊に入隊,同体育学校で長距離選手としての才能を開花させる。1963年のニュージーランド遠征で2万mと1時間走に世界新記録を樹立し,その後マラソンに進出。1964年の東京オリンピックでは1万mで6位入賞,マラソンでは先頭のアベベに次いで国立競技場に姿を現したが,トラックの最終段階でイギリスのB.ヒートリーにかわされ,3秒差の3位となった。しかしその健闘ぶりに日本中が沸いた。オリンピック後,周囲からは次回メキシコシティーオリンピックでのメダル獲得を期待されたものの,腰痛や足の故障などで成績は振るわなかった。復調へのきっかけをつかめず自信を失った円谷は,メキシコシティーオリンピックが開かれる1968年の1月,〈父上様,母上様,幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく……〉との遺書を残し,体育学校の自室で自らの命を絶った。→関連項目村社講平 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「円谷幸吉」の解説 円谷 幸吉ツブラヤ コウキチ 昭和期のマラソン選手 生年昭和15(1940)年5月13日 没年昭和43(1968)年1月9日 出生地福島県須賀川市 学歴〔年〕須賀川高卒 主な受賞名〔年〕第一級防衛功労章〔昭和39年〕,勲六等瑞宝章 経歴昭和35年陸上自衛隊に入り、自衛隊体育学校でマラソンを練習。38年オークランドで2万メートルに59分51秒4の世界新記録を樹立。39年東京五輪に出場し、1万メートルで6位、マラソンでは2時間16分22秒8の自己最高記録を出し、あと200メートルのところでヒートリー(英国)に抜かれ、銅メダルとなった。次回メキシコ五輪での活躍が期待されていたが、故障とプレッシャーから自信を失い、43年1月9日自衛隊体育学校の自室で遺書を残して自殺した。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「円谷幸吉」の解説 円谷幸吉 つぶらや-こうきち 1940-1968 昭和時代後期の陸上競技選手。昭和15年5月13日生まれ。自衛隊にはいり,昭和39年東京五輪では1万m6位,マラソンで銅メダルにかがやく。次回のメキシコ五輪での金メダルを期待されたが,昭和43年1月9日自殺した。27歳。福島県出身。須賀川高卒。【格言など】幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません(遺書) 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「円谷幸吉」の解説 円谷 幸吉 (つぶらや こうきち) 生年月日:1940年5月13日昭和時代のマラソン選手1968年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by