朝鮮戦争に伴いマッカーサー連合国軍最高司令官の要請で1950年に発足した警察予備隊が出発点で、54年7月1日に防衛庁と陸海空の3自衛隊が発足した。最高指揮官は首相。定員は2014年度末で制服組の自衛官が約24万7千人、事務官らが約2万千人。16年度予算案の防衛関係費は5兆541億円で、初めて5兆円を突破した。
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「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする」(自衛隊法3条)と定められた、国の防衛を主任務とする実力組織。対外的にはJapan Self Defence Force(JSDF)と称する。1954年(昭和29)7月1日に施行された自衛隊法によって、それまでの保安隊が陸上自衛隊、警備隊が海上自衛隊となり、新たに航空自衛隊が設けられて正式に自衛隊として発足した。2007年(平成19)には、国際平和協力活動が、周辺事態に対応して行う活動などとともに、日本の防衛や公共の秩序の維持といった任務と並ぶ自衛隊の本来任務と位置づけられた。
[藤井治夫・村井友秀]
第二次世界大戦での敗北の結果、旧日本帝国陸海軍は完全に解体された。1947年(昭和22)5月3日に施行された日本国憲法は、第9条で、戦争を放棄し、陸海空軍その他の戦力は保持せず、交戦権を認めないと規定した。
だが1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、在日米占領軍約8万人が相次いで出動した。空白となった日本の警備と防衛を担当させるため、7月8日、連合軍最高司令官マッカーサーは、7万5000人の警察予備隊設立と、海上保安庁定員の8000人増加を指示した。これに基づき8月10日、警察予備隊令が公布され、即日施行された。国会の承認を得ることもなく、占領命令を実施するためのポツダム政令による警察予備隊の設置が再軍備の始まりであった。警察予備隊の目的は「警察力を補う」ことにあり、治安維持のため特別の必要がある場合に内閣総理大臣の命を受けて行動するものとされた。だが実質的には小型陸軍の建設が目的とされ、師団相当の管区隊4個が全国に配備され、在日米軍の警備任務を引き継いでいった。装備としては小銃、機関銃、ロケット弾発射筒、迫撃砲などが米軍から貸与された。
1952年4月26日、海上保安庁法の一部が改正され、海上警備隊が創設された。その任務は、海上における人命・財産の保護、治安の維持のため緊急の必要がある場合、海上で必要な行動をすることであった。同年4月28日、平和条約が発効するに伴い、保安庁法が国会に提出され、7月31日可決された。8月1日には総理府の外局として保安庁が設置され、その下に保安隊(陸)、警備隊(海)が置かれた。その任務は「わが国の平和と秩序を維持し、人命、財産を保護するため特別の必要がある場合に行動する」ことであった。
装備としては榴弾砲(りゅうだんほう)や戦車、連絡機などが米軍から貸与され、1952年末には日米船舶貸借協定が成立してフリゲート艦や上陸支援艇が引き渡された。このようにして軍隊化は進んだが、任務はあくまで治安維持であった。1954年5月1日には、日米相互防衛援助協定が発効し、アメリカの軍事援助を受け入れることになり、保安隊、警備隊の自衛隊への改編がなされた。
この間、憲法第9条の解釈と警察予備隊等についての合憲・違憲をめぐる論争が活発に展開されてきた。政府は、警察予備隊、保安隊が警察的組織であって戦争を目的とするものではなく、装備および編成も「近代戦を有効かつ適切に遂行しうる能力」をもたないから戦力ではないとした。また1954年12月21日、政府は「自衛のために必要な限度において持つ自衛力は戦力に当たらない」との新解釈を示した。この「自衛のための必要な限度」は、「その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面を有する」(1978年2月14日、国会提出資料)とされている。
[藤井治夫・村井友秀]
冷戦が終わり、米ソ両陣営がそれぞれの陣営を固めるために封じ込めていた地域紛争が、箍(たが)を外されて多発する時代になった。日本では陸上自衛隊の内部で、国連平和維持軍(PKF)への参加が検討され始めた。
1990年(平成2)、湾岸危機が発生し、政府が国連平和協力法を制定して自衛官を派遣しようとしたが、同法案は衆議院で廃案になった。1992年8月にはPKO(国連平和維持活動)等協力法が成立、自衛隊の部隊がカンボジア、モザンビーク、ルワンダ、ゴラン高原などに派遣された。
PKO法は衆議院の修正で附則として自衛隊のPKF参加を凍結し、施行3年後に見直すことを定めた。1998年には自衛官等の武器使用は上官の命令によるとの法改正がなされた。2007年(平成19)、国際平和協力活動は、周辺事態に対応して行う活動などとともに、自衛隊の本来任務のなかに位置づけられた。
[村井友秀]
自衛隊の海外派遣は、国際平和協力活動の枠組みのなかで実施されており、(1)イラク国家再建に向けた取組みへの協力、(2)国際テロ対応のための活動、(3)国際平和協力業務、(4)国際緊急援助活動、(5)拡散に対する安全保障構想(PSI=Proliferation Security Initiative)への協力に区分されている。
自衛隊の海外派遣をめぐって大きな転換点となったのが湾岸戦争である。湾岸戦争において軍事面での人的貢献の重要性を認識した政府は、1991年(平成3)に海上自衛隊の掃海部隊をペルシア湾に派遣する一方、1992年8月に国際平和協力法が施行されて以来、国際平和協力活動に主体的かつ積極的に取り組んでいる。これまで自衛隊は、国際平和協力業務の一環で、カンボジア(1992年9月~1993年9月)、モザンビーク(1993年5月~1995年1月)、ルワンダ(1994年9月~12月)、ゴラン高原(1996年2月~ )、東チモール(1999年11月~2000年2月、2002年2月~2004年6月)、アフガニスタン(2001年10月)、イラク(2003年3月~4月、同年7月~8月)、ネパール(2007年3月~ )、スーダン(2008年10月~ )に派遣されている。
一方、1992年6月の国際緊急援助隊法改正を受けて、自衛隊は国際緊急援助活動にも参加している。国際緊急援助活動の枠組みで自衛隊が初めて派遣されたのはホンジュラス(1998年11月~12月)のハリケーンに際してであり、それ以降自衛隊は、トルコ(1999年9月~11月)、インド(2001年2月)、イラン(2003年12月~2004年1月)、インドネシア・スマトラ島沖(2004年12月~2005年3月)、パキスタン(2005年10月~12月)、インドネシア・ジャワ島(2006年6月)の地震や、カムチャツカ半島のロシア潜水艇事故(2005年10月~12月)の際に国際的な援助活動に従事している。
2001年のアメリカ同時多発テロの発生は、国際社会が一致してテロ対処に積極的に取り組む必要性があることを示す重大なできごとであった。日本では、国際テロ対応のための活動として2001年(平成13)11月にテロ対策特別措置法を施行して以来、海上自衛隊がインド洋においてアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、パキスタンなどテロ対策海上阻止を実施する各国艦艇に対して洋上での補給活動を行ってきた。2007年11月には同法が失効したことを受けて補給がいったん中断したが、2008年1月には補給支援特別措置法が成立し、インド洋における洋上給油が再開されている。
2003年5月以降、国際社会がイラクの国家再建に向けて積極的に取り組むなか、日本も自衛隊をイラクに派遣している。陸上自衛隊は、2003年7月に成立したイラク特別措置法に基づき、2004年1月以降、約600名を逐次派遣し、ムサンナー県において医療、給水、学校・道路等公共施設の復旧・整備や人道復興物資等の輸送などを実施した。2006年9月に撤退するまでの活動実績としては、医療器材の使用方法や医療品管理の指導・助言などの医療支援277回、給水5万3500トン(延べ1189万人分)、学校36校における壁・床・電気配線などの補修、生活道路31か所(約80キロメートル)の整地・舗装、診療所施設・低所得者用住宅・浄水場・文化施設66か所の整備がある。陸上自衛隊の活動に伴い、約49万人、1日最大約1100人の現地雇用の創出に貢献している。また、2006年6月から9月にかけて、クウェートなどに約100名を派遣し、物資の後送に必要な業務を実施している。一方、航空自衛隊も2003年12月以降、C-130H輸送機3機、人員約210名の派遣輸送航空隊を逐次派遣して、陸自派遣部隊への補給物資、医療器材などの人道復興関連物資、国連や多国籍軍などに対する空輸支援を実施している。2008年12月に撤退するまでの輸送実績は、輸送回数821回、輸送人員約4万6500人、輸送物資重量約673トンに上る。海上自衛隊も、陸上自衛隊派遣時に輸送艦「おおすみ」、護衛艦「むらさめ」の2隻の艦艇、人員約330名からなる派遣海上輸送部隊を派遣し、陸自車両約70両の輸送を担当した。
PSIへの取組みについては、大量破壊兵器などの拡散阻止能力の向上のため、2009年5月末までに33回のPSI阻止訓練を実施している。
現在では、自衛隊が国際平和協力活動に主体的かつ積極的に取り組むことができるように、さまざまな体制整備が進められている。2007年3月には、陸上自衛隊中央即応集団が新編されたが、国際平和協力活動を実施する際に必要な教育を平素から行う専門の部隊を保有する必要性があることから、中央即応集団の隷下に国際活動教育隊が新編された。また、2008年3月には、国際平和協力活動への派遣が決定された場合に速やかに自衛隊の先遣隊を派遣できるようにするため、中央即応集団の隷下に中央即応連隊が新編されている。2008年8月には、航空自衛隊の航空支援集団との中央即応集団演習が実施され、国際平和協力活動派遣に関する即応性の向上が図られている。
[村井友秀]
1957年(昭和32)6月、第一次防衛力整備計画(一次防)が決定された。これは1958年度から1960年度に至る三か年計画で、「骨幹的防衛力」の整備を主眼としていた。これによって自衛隊は1960年ごろ、防衛任務を遂行する実力組織としての骨格が形成されたものとみることができる。
1960年6月23日、平和条約と同時に締結された日米安全保障条約にかわる新安保条約が発効した。この新条約は、第5条で日本の施政下にある領域に限定しているとはいえ、武力攻撃に対する共同対処行動を新たに規定した。したがって実質的には軍事同盟条約としての性格をもつものであった。自衛隊の強化がそれを可能にしたのである。1962年度からは二次防がスタートし、五か年計画として「内容充実」を進めた。1967年度からは三次防、1972年度からは四次防が、いずれも五か年計画として実施された。この間、日本の防衛費予算は1968年度の世界第14位が、1972年度には第8位となった。
ポスト四次防段階を迎え、1976年10月「防衛計画の大綱」が決定された。これは防衛力整備の主眼を質の強化に置き、「限定的かつ小規模な侵略」に対処する即応能力を建設するとしている。この大綱に基づき防衛庁(現防衛省)は、1978年度から3年ごとに中期業務見積り(中業)を作成することになった。最初の中業は作業年度を冠して「昭和53年度中期業務見積り」(略称53中業)とよばれている。中業の対象年度は翌々年度以降の5か年間で、そのうち後期2年は見直しのうえ次期中業に含められる。2回目の56中業は1982年7月に決定された。このときから中業は、国防会議に付議されることになった。1986~1990年度のものは政府計画に格上げされ、1985年9月、中期防衛力整備計画(中期防)として正式採用された。続いて1990年(平成2)12月には、1991~1995年度の中期防が決定をみた。2009年度までは、中期防(2005~2010年度。2004年12月10日安全保障会議決定・閣議決定)に基づき防衛力が整備された。2010年(平成22)には「動的防衛力」を重視する22大綱が決まり、この大綱に基づき中期防(2011~2015年度)が決定された。
[藤井治夫・村井友秀]
防衛計画の大綱は、日本の安全保障の基本方針、防衛力の意義や役割、さらにはこれらに基づく自衛隊の具体的な役割、主要装備の整備目標の水準を示す防衛力の基本指針であり、これまでに4回策定されている。現在の防衛計画の大綱「平成23年度以降に係る防衛計画の大綱について」(22大綱)は、1976年(昭和51)の51大綱、1995年(平成7)の07大綱、2004年(平成16)の16大綱に続くものとして2010年に策定された。なお、この新大綱に基づき、「中期防衛力整備計画」(平成23年度~27年度)が決定されている。
新大綱では、安全保障の基本方針として、(1)情報収集・分析能力、(2)情報保全体制の強化、(3)迅速・的確な意思決定による政府一体としての対応、(4)首相官邸における国家安全保障会議(NSC)の設置、(5)PKO参加5原則の見直しによる国際平和協力活動に対するより効率的・効果的な取り組みなどが規定された。
新大綱の最大の特色は、これまでの基盤的防衛力構想から脱却し、「即応性、機動性、柔軟性及び多目的性を備え、軍事技術水準の動向を踏まえた高度な技術力と情報能力に支えられた『動的防衛力』を構築」しようとすることにある。基盤的防衛力構想では、装備や部隊の量・規模など防衛力の存在自体による静的抑止の効果や地理的特性等に基づく均衡のとれた部隊配備が重視されていたが、新大綱の提唱する動的防衛力では、防衛力の運用強化に基づく動的抑止を追求する一方、島嶼(とうしょ)防衛の態勢整備などを盛り込み、警戒監視、洋上哨戒(しょうかい)、防空などの機能を重点的に整備してめりはりのある部隊配備を推進する。この動的防衛力の概念は16大綱においても反映されたが、22大綱ではその特色をいっそう鮮明にしたといえる。
防衛装備の整備目標については、陸上自衛隊の編成定数を即応予備自衛官を1000人削減して15万4000名としたほか、即応性・機動性の向上および南西地域の島嶼部への部隊配置の充実を図るため、基幹部隊のうち5個師団、1個旅団を改編するとともに、地対空誘導弾部隊を1個群廃止して7個高射特科群・連隊とし、1個旅団内に高射特科連隊を新設する。また、主要装備については戦車約200両、火砲約200門を削減して、各約400両・門体制とした。海上自衛隊については、地域配備の護衛艦隊部隊の警備区を取り払い、機動運用を強化した護衛艦隊部隊を4個隊整備するとともに、潜水艦部隊を4個隊から6個隊に増大する。主要装備については護衛艦を1隻増の48隻、潜水艦を6隻増の22隻に増加する。また、航空自衛隊については、基幹部隊の航空警戒管制部隊を従来の8個警戒群から4個警戒群・24個警戒隊にする一方、作戦用航空機を10機減の約340機(うち戦闘機は約260機水準を維持)とした。BMDにも使用しうる主要装備については、イージス艦「あたご」および「あしがら」をBMD対応に改修して4隻から6隻に増加する。
また、新大綱では、人事制度の改革についても規定されており、階級や年齢構成のあり方を見直して、幹部・曹を削減する一方、士を増加して若返りを図り、第一線部隊の精強性を向上しようとしている。また、新大綱では、自衛官の階級別定数管理、後方業務の新たな人事任用制度、早期退職制度も導入する。
[村井友秀]
防衛力の中核である自衛隊は、日本の防衛という国家存立にとってもっとも基本的な役割を担う実力組織であり、陸上・海上・航空自衛隊によって構成されている。防衛省には、各自衛隊の任務遂行に寄与するために、防衛研究所、情報本部、技術研究本部、装備施設本部、防衛大学校、防衛医科大学校などさまざまな組織がある。内閣の首長としての内閣総理大臣は、防衛大臣を含めた自衛隊に対し、内閣を代表して、最高の指揮監督権をもっている(自衛隊法7条)。この指揮監督権の行使は、閣議にかけて決定した方針に基づかなくてはならない。一般に、自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣であると説明されている。
行政事務を分担管理する主任の大臣は、その所掌事項について権限をもつ。国務大臣たる防衛大臣は内閣総理大臣の指揮監督を受け、自衛隊の隊務を統括する。防衛大臣を補佐するものとして、防衛副大臣、政務官、秘書官、事務次官のほか、局長、統合幕僚監部、陸海空の各幕僚監部がある。
現在進行中の防衛省改革では、防衛参事官を廃止する一方、防衛大臣を補佐する体制を強化して防衛大臣補佐官(3人以内)を新設するほか、防衛会議の法律上の新設を図ることを規定している。
内部部局には大臣官房、防衛政策局、運用企画局、人事教育局、経理装備局がある。
官房長および局長は、その所掌事務について、(1)各自衛隊に関する各般の方針および基本的な実施計画の作成について防衛大臣が行う指示、(2)各幕僚長が作成した方針および基本的実施計画について大臣の行う承認、(3)統合幕僚監部の所掌する事項について大臣の行う指示または承認、(4)各自衛隊に関し大臣の行う一般的監督、について大臣を補佐するものとされている(防衛省設置法16条)。これは用兵事項を含む軍事全般について、文官の関与を認めたもので、制服組独走を防ぐ安全弁として設けられた規定である。
統合幕僚監部と陸海空各幕僚監部は、指揮官(大臣)を補佐する幕僚(参謀)機構である。それは、制服組が用兵(軍令)事項を中心に防衛力整備(軍政事項)についても指揮官を補佐するシステムとなっている。
統合幕僚監部の長は最高位の自衛官である統合幕僚長である。統合幕僚会議の時代から、日米防衛協力の強化に伴い、その権限が強化されてきた。1998年(平成10)4月に防衛庁設置法(現防衛省設置法)などの改正があり、統合防衛計画、統合警備計画などの作成、出動時その他統合運用が必要な場合として防衛大臣が定める場合における自衛隊に対する指揮命令の基本、防衛に関する情報の収集・調査などについて大臣を補佐する。また防衛出動、治安出動および海上警備行動・災害派遣時などに編成される陸海空統合の特別の部隊の運用についての大臣の指揮命令に関して補佐し、命令の執行は統合幕僚長が行う。また、1996年5月の防衛庁設置法改正で統合幕僚会議の下に情報本部が設置され、定員1300人をもって情報収集・分析を担当していたが、2006年(平成18)に長官(大臣)直轄組織に改編された。
陸海空各幕僚長は、それぞれの隊務に関し最高の専門的助言者として防衛大臣を補佐する。また大臣の指揮監督を受けて、それぞれの隊務および隊員の服務を監督する。各幕僚長の監督を受ける部隊および機関に対する大臣の指揮監督は、それぞれ当該幕僚長を通じて行うものとされ、大臣が自ら直接に部隊などを指揮監督することはできない。大臣の部隊等に対する命令は、統合部隊の運用を除き、幕僚長が執行することになっている。
このように自衛隊の各幕僚長はいずれも制服組として防衛大臣を補佐するが、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣を直接補佐する地位にはない。
内閣には国防に関する重要事項を審議する諮問機関として安全保障会議(1986年7月、国防会議を廃止して新設)が置かれている。その議長は内閣総理大臣であり、議員は内閣法第9条であらかじめ指定された国務大臣、外務大臣、財務大臣、内閣官房長官、国家公安委員長、防衛大臣、総務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣である。内閣総理大臣は、国防の基本方針、防衛計画の大綱、防衛出動の可否などについて安全保障会議に諮らなければならない。さらに1986年(昭和61)の改編により、内閣総理大臣は重大緊急事態が発生した場合に、必要があるときは、安全保障会議に対処措置について諮ることができることになった。また、内閣総理大臣は、必要があると認めるときは、関係の国務大臣、統合幕僚長その他の関係者を会議に出席させることができる。会議の事務は内閣官房で処理されている。
[藤井治夫・村井友秀]
任務遂行のために自衛隊を有機的に組織すること、またはその組織自体を編成という。陸上自衛隊は、陸上幕僚監部と陸上幕僚長の監督を受ける部隊および機関を含む(海空も同様)。幕僚監部は、それぞれの隊務に関する防衛大臣の幕僚機関である。
陸上自衛隊は、5個の方面隊(北部、東北、東部、中部、西部方面隊)から編成されており、それぞれの方面隊は戦闘部隊および戦闘部隊に対し後方支援を行う後方支援部隊からなる師団や旅団をもって編成されている。今日、陸上自衛隊は、従来の対機甲戦闘を重視した整備構想を転換させて、即応性や高い機動力を備えた9個師団(第1、第2、第3、第4、第6、第7、第8、第9、第10師団)および6個旅団(第5、第11、第12、第13、第14、第15旅団)を編成している。さらに、ゲリラや特殊部隊による攻撃や大規模災害などの新たな脅威や多様な事態に迅速に対応できるよう、日本の地理的特徴に応じて14区画に配置する一方、国際平和協力活動への対応を強化するためにマンパワーを重視した体制に移行している。また、2007年(平成19)3月、事態発生時に迅速に部隊を展開させるために、機動運用部隊(中央即応連隊など)や各種専門部隊(中央特殊武器防護隊など)を一元的に管理した中央即応集団が新編された。同集団隷下には、国際平和協力活動に迅速に部隊を派遣できるように教育訓練や研究などを行う国際活動教育隊が編成されている。このほか陸海空各自衛隊の共同部隊としては自衛隊指揮通信システム隊があるほか、共同機関としては自衛隊地方協力本部、自衛隊中央病院、自衛隊地区病院、自衛隊体育学校がある。2010年12月に閣議決定された現在の防衛計画の大綱「平成23年度以降に係る防衛計画の大綱について」(22大綱)では、編成定数が16大綱の15.5万人から15.4万人に削減されたほか、主要装備である戦車については約600両から約400両に、また火砲などの特科装備については約600両・門から約400両・門にそれぞれ削減することが定められている。
海上自衛隊は、自衛艦隊および5個の地方隊(大湊(おおみなと)、横須賀、舞鶴(まいづる)、呉(くれ)、佐世保(させぼ)地方隊)から編成されている。自衛艦隊は、護衛艦隊、航空集団、潜水艦隊などを基幹として編成されており、主として機動運用によって日本周辺海域の防衛にあたっている。地方隊は、主として担当区域の警備および自衛艦隊の支援に従事している。今日、護衛艦部隊については、各種事態に即応できるように、従来の固定的な編成を改めて各艦の練度に応じて部隊を編成している。この際、機動運用部隊は8個隊(1個4隻)に集約され、地域配備部隊については5個警備区にそれぞれ1個隊が配備されている。航空機部隊については、周辺海域の警戒監視態勢および即応性・実効性を確保するため、22大綱では作戦用航空機の機数を16大綱時の水準(約150機)を維持することが規定された。また、固定翼哨戒機(しょうかいき)部隊および回転翼哨戒機部隊も効率化が図られており、前者は従来の8個隊から4個隊に、後者は全機の艦載運用を基本とした5個隊に集約される。潜水艦部隊については、新たな脅威や多様な事態にかかわる兆候をいち早く察知し柔軟に対応できるように、引き続き潜水艦16隻を保有する一方、部隊については6個隊(1個隊2~3隻)を4個隊(1個隊4隻)に集約される。
航空自衛隊は、航空総隊および航空方面隊から編成されている。航空総隊は、3個の航空方面隊(北部、中部、西部航空方面隊)および南西航空混成団を基幹として編成され、主として全般的な防空任務にあたっている。航空方面隊は、戦闘機部隊などからなる航空団、警戒管制レーダー部隊などからなる航空警戒管制団および地対空誘導弾部隊などからなる高射群などをもって編成されている。22大綱では、警戒管制部隊を8個群・20個警戒隊(16大綱)から4個群・24個警戒隊としたほか、作戦用航空機を約350機(16大綱)から10機減の約340機(うち戦闘機は約260機の水準を維持)に削減することを規定している。一方、警戒航空隊については16大綱で規定された1個警戒航空隊(2個飛行隊)体制が維持される。また、「中期防衛力整備計画」(平成23年度~27年度)では、南西地域の即応態勢を充実するため、那覇基地のF-15戦闘機部隊を2個飛行隊とするほか、総隊司令部の米軍横田基地への移転に伴い航空自衛隊横田基地を新設することが規定された。
また22大綱では、弾道ミサイル防衛(BMD)について透明性を確保するために、16大綱に引き続きBMDにも使用しうる主要装備・基幹部隊が明記され、海上自衛隊のBMD対応イージス艦が4隻から6隻に増加するほか、航空自衛隊の航空警戒管制部隊は11個警戒群・隊、地対空誘導弾部隊は3個高射群から6個高射群に増加することが規定されている。
[村井友秀]
自衛隊はその任務に基づく行動として防衛出動、治安出動、海上における警備行動、災害派遣、地震防災派遣および領空侵犯対処措置を行う。
防衛出動は、内閣総理大臣が、外部からの武力攻撃(外部からの武力攻撃のおそれのある場合を含む)に際して、日本を防衛するため必要があると認める場合に、国会の承認を得て命じるもので、衆議院が解散中であれば参議院の緊急集会に諮ればよい。また、とくに緊急の必要がある場合には国会の承認を得ないで出動を命じうる。その場合は事後ただちに国会の承認を求めることを要する。国会で不承認の議決があったとき、または出動の必要がなくなったときは撤収を命じなければならない。
防衛出動を命じられた自衛隊は、日本を防衛するため、必要な武力を行使しうる。この武力行使が認められるのは、防衛出動のときだけである。このほか、防衛出動が下令されたときは必要に応じ公共の秩序の維持のため行動することができる。そのときの自衛官の権限は、治安出動のときと同様である。また内閣総理大臣は特別の部隊を編成し、海上保安庁の全部または一部をその統制下に入れることができる。防衛大臣は予備自衛官に防衛招集命令を発することができる。さらに都道府県知事は、防衛大臣などの要請に基づき、施設、土地、家屋、物資などを使用、収用し、医療、土木建築、輸送を業とする者に対して従事命令を発することが可能になる(自衛隊法103条)。
内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部または一部の出動を命ずることができる。これを命令による治安出動という。
都道府県知事は、治安維持上重大な事態につきやむをえない必要があると認める場合には、当該都道府県公安委員会と協議のうえ、内閣総理大臣に対し部隊等の出動を要請することができる。この要請があり、事態がやむをえないと認める場合、内閣総理大臣は出動を命じる。これを要請による治安出動という。命令による治安出動は20日以内に国会の承認を要し、要請による治安出動は、事態が収まったのち速やかに都道府県議会に報告しなければならない。いずれの場合も警護鎮圧のため武器を使用することができる。防衛出動時の武力行使は戦闘力の総合的発動を意味するが、武器の使用は用具としての武器を使うことである。治安出動の際自衛官の職務執行には警察官職務執行法が準用され、同法第7条による武器の使用も許される。
防衛大臣は、海上における人命・財産の保護または治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て海上における警備行動を命じることができる。この場合は警職法第7条が準用される。また海上保安庁法の一部が防衛出動、治安出動、海上警備行動の際、準用される。1999年(平成11)3月24日、能登(のと)半島沖に侵入した不審船舶2隻に対処するため海上警備行動が発令されている。
天災地変その他の災害に際しての災害派遣、地震防災応急対策のための地震防災派遣では警職法と海上保安庁法が一部準用される。
さらに防衛大臣は、外国の航空機が国際法規または航空法その他の法令に違反して日本の領空に侵入したとき、これを着陸させ、退去させるため自衛隊の部隊に必要な措置を講じさせることができる。このため航空自衛隊の要撃部隊は警戒待機(アラート)の態勢にあり、国籍不明機に対し緊急発進(スクランブル)を行う。必要な措置としての武器の使用は、正当防衛、緊急避難の要件に該当する場合に限られている。なお自衛官は自衛隊の武器等を職務上警護するためにも武器の使用を認められている。
[藤井治夫]
自衛隊は、その任務の遂行に必要な武器を保有することができる。初期の装備はほとんど米軍から供与されていたが、1955年(昭和30)には火器の調達方針が決まり、またジェット戦闘機のライセンス生産が始まった。1960年代初めには戦車、装甲車、火器が国産化され、1970年代には最新のものに更新された。
艦艇生産は1953年に始まり、沿海用から外洋向けへとしだいに大型化していった。1970年代前半にはヘリコプター搭載の護衛艦、涙滴型の潜水艦が出現した。航空機は1960年代前半に超音速のF-104J戦闘機、1969年からF-4EJ戦闘機、1978年にはF-15J戦闘機のライセンス生産が始まった。国産機としては1970年代にC-1輸送機、T-2練習機、F-1対地支援戦闘機が生産された。1996年度(平成8)からは日米共同開発によるF2対地支援戦闘機130機の国産調達が開始された。また対潜哨戒機としては1950年代後半にP2-V7、続いてP2-J、さらに1978年(昭和53)以降P-3Cのライセンス生産が行われた。ミサイルでは地対空のナイキJ、ホークがライセンス生産され、対戦車ミサイル、空対艦ミサイル、短距離地対空ミサイルなどが国産されている。戦闘機、ミサイルなどの最先端兵器ではアメリカの軍事技術への依存度が高いが、艦艇、通信電子兵器、陸上装備はすでに先進国レベルに達している。
戦力論争と関連して、国会では、他国に攻撃的脅威を与える武器の保有についての論議が続けられてきた。政府は1950年代には「攻撃的な用途に供するための武器は持てない」としていたが、1969年になって「自衛のための必要最小限度」以内の兵器は保有できるとし、もてない兵器は「性能上相手国の国土の潰滅(かいめつ)的破壊のためにのみ用いられる兵器」だけであるとした(政府答弁書、1969年4月8日)。こうしてICBM(大陸間弾道ミサイル)、長距離戦略爆撃機等以外の装備はもてるという積極姿勢を示すに至った。
現在、22大綱を受けて、新たな脅威や多様な事態への実効的な対応ができるように装備の充実が図られている。新中期防衛力整備計画(平成23年度~27年度)では、周辺海空域の安全確保のため、ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)、汎用護衛艦(DD)、潜水艦および固定翼哨戒機(P-1)の整備などを実施するとともに、固定式三次元レーダー装備や引き続き早期警戒管制機(E-767)の改善を実施することが規定された。島嶼部に対する攻撃への対応では、情報収集・警戒体制の整備および迅速な展開・対応能力の向上を図る一方、防空能力の向上を図るため那覇基地における戦闘部隊を1個飛行隊から2個飛行隊に改編するほか、引き続き戦闘機(F-15)の近代化改修および自己防衛能力の向上、ペトリオットの改修、中距離地対空誘導弾の整備などを推進することが盛り込まれている。海上交通の安全確保では、既存装備品の延命を行うほか、哨戒ヘリコプター(SH-60K)、掃海艦艇、掃海・輸送ヘリコプター(MCH-101)などを整備することが規定され、サイバー攻撃への対応においては統合的に対処するための体制を強化する。また、ゲリラや特殊部隊による攻撃に対しては普通科部隊の強化を図るほか、引き続き軽装甲機動車、多用途ヘリコプター(UH-60JA)および戦闘ヘリコプター(AH-64D)を整備する。また、弾道ミサイル攻撃に対しては、引き続きイージス・システム搭載護衛艦およびペトリオットの能力向上などが規定されている。
[藤井治夫・村井友秀]
自衛隊の能力が高まるに伴い、その行動範囲が広がり、戦略構想も能動的なものになってきた。
1950年代は国内治安任務を担当しつつ、順次、地上防衛任務を在日米軍から引き継いだ。ついで1960年代なかばまでに沿海防衛、防空任務を担当することになるが、そのころの戦略は対外的には守勢であった。
1960年(昭和35)の新日米安保条約締結により、自衛隊は日米共同対処行動への参加、沖縄防衛支援を義務づけられた。三次防で海上自衛隊は、周辺海域防衛力の強化、海上交通の安全確保能力向上に踏み出す。1970年代になると周辺海域数百海里、航路帯(シーレーン)1000海里の防衛が課題とされ、1981年5月には訪米した首相鈴木善幸(ぜんこう)がこれを公約するに至る。
朝鮮半島に関しては、すでに1963年に、第二次朝鮮戦争勃発を想定した三矢(みつや)研究(昭和38年度統合防衛図上研究)が統幕会議によって実施されている。その後1965年の日韓条約締結、1969年の佐藤‐ニクソン共同声明における「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」という認識の表明を経て、日韓の軍事協力関係は深まってきた。
1978年11月、第17回日米安全保障協議委員会が「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を決定したことにより、日米共同作戦の態勢が固まった。その後、共同作戦計画が策定されたのをはじめ、必要な研究や作戦準備が進められた。1982年1月には、日本以外の極東における事態に対する日米協力についての共同研究が開始された。この極東有事研究の焦点は朝鮮半島にあり、その際日本は自衛隊基地の共同使用その他の便宜供与、自衛隊による武力行使以外の対米協力を行うことが米側から期待されたが、具体的な進展はみられなかった。
冷戦終結による情勢変化に対応するため1995年(平成7)11月に防衛計画大綱が決定され、続いて1997年9月23日、新しい「日米防衛協力のための指針」(日米新ガイドライン)が日米安全保障協議委員会で決定された。新指針の特徴は、第一に日米協力の対象を周辺事態(日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合)に拡大し、相互協力計画を検討し有事に備える共通の準備段階基準を確立すること、第二に米軍の活動に対する日本の支援などについて40項目にわたる協力事項を示したこと、第三に日本は中央政府、地方公共団体、民間の能力を活用し、その実効性を確保するため法的措置を講じることを確認したことである。
[藤井治夫]
新指針の決定を受けて日本政府は周辺事態法および自衛隊法一部改正(在外邦人救出のため船舶などを使用し、武器使用を認める)、日米物品役務相互提供協定(ACSA(アクサ))を周辺事態に適用できるように改正するガイドライン関連案件を1998年(平成10)4月に国会に提出し、いずれも1999年5月に成立した。
周辺事態法は日本による後方地域支援、自衛隊による戦闘遭難者の捜索救助、自衛隊出動時の武器使用、関係行政機関による対応措置の実施、地方公共団体の長の協力、「国以外の者」(地方公共団体、民間)に対する協力の依頼について定めている。国会の承認は自衛隊による米軍への後方支援、捜索救助活動に限られ、かつ緊急時は事後承認でもよいことになった。
以上の案件は新指針により日本が実質的な義務として引き受けた事項である。このほか指針は「日米両国政府」が協力して実施すべき約50項目の事項を定めている。それは、(1)平素からの協力、(2)日本有事の際の対処行動、(3)周辺事態における協力、(4)防衛協力のためのメカニズムおよび計画、実施要領等の確立、などに及ぶ。
そのなかには、周辺事態が日本有事に波及する事態への適切な対応、情報活動での日米協力と保全責任、日米取決めに基づく相互支援など、日本側が新たな立法や対米約束を迫られる事項が含まれている。政府および自民党は周辺事態法以後の課題として、日本有事法制および米軍の行動に関する法制の整備、ACSAの日本有事の際への拡大適用、スパイ防止法の検討などを取り上げたが、それらはすべて新ガイドラインで規定されているのである。そして、2003年(平成15)~2004年にかけて武力攻撃事態法などを成立させ、日本の有事法制はいちおうの整備を終えた。
[藤井治夫]
かつての軍部独走と侵略戦争の反省にたって、戦後日本は平和国家として進むことを国是としてきた。憲法の平和主義に基づき国会は、三つの本会議決議をもって厳しい歯止めを自衛隊にかけている。
第一は自衛隊の海外出動禁止で、参議院本会議が1954年(昭和29)6月2日に決議した。第二は非核三原則で、衆議院本会議が1971年11月24日に決議した。第三は武器輸出の禁止で、衆議院本会議が1981年3月20日、参議院本会議が同31日に決議した。国権の最高機関である国会の決議は政府を拘束するので、これらの決議は重要な歯止めとして機能してきた。だが海外出動の禁止をめぐり、政府は1966年6月、「武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣」することが海外派兵であるとの新解釈を示し、公海、公空での行動や武力行使を目的としない外国への出動は可能であるとした。国連平和維持軍への参加や海外在留邦人保護のための出動、海外災害派遣などはできることになった。
武器輸出禁止については、1983年1月14日、中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣が対米武器技術供与は例外扱いとすることを決めた。国会決議が政府によって変更されたのである。非核三原則も、核積載艦の通過は事前協議の対象ではないとする元駐日大使ライシャワーの発言(1981年5月)が示すように、しだいに空洞化された。
戦争放棄を定めた日本国憲法には、有事に備える規定がない。だが、自衛隊は発足当初から有事法制の整備を求めてきた。1977年8月、防衛庁として日本有事の際、必要な有事法制について公式の研究が始まり、1981年4月と1984年10月に、その中間報告が発表された。新しい大綱と日米防衛協力指針に基づき周辺事態法に続いて総合的な有事法制の整備が新たな課題として浮上した。有事立法は自衛隊の戦える体制と国民の協力を確保することを目的とする。2004年(平成16)までに整備された有事法制によって自衛隊の存在と憲法体制との関係はいっそう複雑なものとなるだろう。
[藤井治夫]
『藤井治夫著『自衛隊 この戦力』(1970・三一書房)』▽『読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』(1981・読売新聞社)』▽『法律時報他編『市民の平和白書83』(1983・日本評論社)』▽『室山義正著『日米安保体制』上下(1992・有斐閣)』▽『防衛法学会編著『平和・安全保障と法』(1996・内外出版)』▽『水島朝穂著『武力なき平和』(1997・岩波書店)』▽『山内敏弘編『日米新ガイドラインと周辺事態法』(1999・法律文化社)』▽『マイケル・グリーン、パトリック・クローニン編、川上高司監訳『日米同盟――米国の戦略』(1999・勁草書房)』▽『谷口智彦編訳『同盟が消える日――米国発衝撃報告』(2010・ウェッジ)』▽『防衛省編『防衛白書』各年版(ぎょうせい)』▽『朝雲新聞編集局編『防衛ハンドブック』各年版(朝雲新聞社)』▽『朝雲新聞社編集局編『自衛隊装備年鑑』各年版(朝雲新聞社)』▽『防衛省防衛研究所編『東アジア戦略概観』各年版』▽『佐々木芳隆著『海を渡る自衛隊』(岩波新書)』▽『孫崎享著『日米同盟の正体――迷走する安全保障』(講談社現代新書)』▽『前田哲男著『自衛隊――変容のゆくえ』(岩波新書)』
1954年7月に自衛隊法によって設けられた軍事組織。対外的にはJapan Defence Forceと称する。直接侵略および間接侵略に対し日本を防衛することを主たる任務とし,必要に応じ,公共の秩序の維持にあたる。
自衛隊の起源は1950年8月に発足した警察予備隊にさかのぼる。同年6月に朝鮮戦争が勃発し,在日米占領軍が朝鮮戦線に出動したので,その空白を埋め,国内治安の維持にあたる軽武装の軍隊が必要となり,連合国軍最高司令官マッカーサーは,かねてより日本政府から求められていた警察官増員の要求に応じる形で,警察予備隊の創設と海上保安庁職員の増員を命じた。警察予備隊令は治安の維持を任務として掲げるなど,地方自治体や国の行う警察活動を補完する法形式を採っており,また,実際にも,当時の吉田茂首相は旧軍人勢力の復活を嫌って幹部として警察官僚を多く起用したので,一見したところでは警備警察や海上警察の特別な組織のようであったが,その実態は明らかに警察の範囲を超えた軍事組織であり,違憲の再軍備とする非難が集中した。
その後,51年に日本はサンフランシスコ条約によりアメリカ,イギリスを中心とする自由主義諸国との〈片面講和〉の条約を結び,同時にアメリカとの間に日米安全保障条約を結ぶことで,アメリカ陣営に決定的に参加する形で独立を回復した。同条約の下で軍隊を引き続き駐留させて日本の防衛を担ったアメリカは,日本の防衛力の漸増を〈期待〉したので,それに応じて52年8月に保安庁が新設され,警察予備隊は保安隊に,海上保安庁内の海上警備隊も保安庁内の警備隊へと改組された。保安隊は,〈新国軍の土台〉(吉田首相)とされ,法制度上もその任務が警察活動を一歩踏み出した〈平和と秩序〉の維持に求められ,また,実態面でも,公職追放を解除された旧軍人が続々と参加し,装備も強化されるなど,軍隊の性格が一段と濃くなった。これにともない憲法違反の批判も強まったが,吉田内閣は,〈戦力なき軍隊論〉,つまり,憲法9条2項が保持を禁止した〈陸海空軍その他の戦力〉とは近代戦を有効に遂行する能力のある軍事組織を意味し,保安隊は弱体でそれに該当しないとの見解(昭和27年見解ともいう)を押し立てて違憲論に対決した。軍隊色を多少なりとも薄めるため,旧軍当時の用語の使用を抑えて,将校を幹部,歩兵を普通科,工兵を施設科,戦車を特車などと呼ぶ独特の命名法が発達したのもこの時期である。
保安隊および警備隊の装備はアメリカの軍事援助によって強化されていったが,その根拠となるMSA協定(〈日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定〉,1954成立)が日本側のいっそうの防衛努力を求め,また,駐留米軍も漸減したので,政府は54年に防衛二法(防衛庁設置法,自衛隊法)を強行成立させ,総理府の外局たる防衛庁の下に,日本の防衛を第1の任務とし,あわせて副次的に国内の治安維持を担当する自衛隊を発足させた。保安隊は陸上自衛隊に,警備隊は海上自衛隊に改編され,また,航空管制権の返還にあわせて航空自衛隊が新設された。自衛隊の戦力は強力なものとなり,もはや〈戦力なき軍隊〉論では説得的でなくなったので,政府は,一面では,〈自衛力合憲論〉,つまり,憲法9条2項が保持を禁止しているのは侵略戦争を行いうる戦力であり,これに該当せずに自衛の範囲にとどまる実力の保持と行使は,独立した国家である以上当然に具有し,憲法も決して否定していない自衛権の内容として許され,自衛隊はその範囲内にとどまるから合憲であるとの立場(昭和29年見解ともいう)を採り,他面では,憲法を明文改正し,再軍備の足かせとなる憲法9条を葬り去って違憲論の余地をなくそうと試みた。しかし,鳩山一郎内閣以降の改憲方針は,結局,発議に必要な衆・参両院での議席確保に失敗したことで挫折し,自衛隊は,その合憲性に深刻な疑問をかかえこんだままで長期にわたる建軍の歩みを進めることになった。
ところが,1990年代に入ると自衛隊をめぐる状況は一変した。まず,ソ連が崩壊して東西冷戦が終結し,核戦争や世界大戦の危機は小さくなるとともに,それまでの冷戦期の大規模な侵略の危険性は相互不信が生んだ幻想であったことが明らかになり,各国の軍部や軍需産業が笛を吹いて危機を演出しても人々の理解を得ることが困難になった。自衛隊も基本的な課題を失ったことになり,軍縮が期待された。
次に,冷戦終結の原因でもあり,結果でもあるが,体制の崩壊は旧政権の崩壊をもたらしただけでなく,国家の求心力の急激な減少を招いた。そこで国際紛争の主役に躍り出たのが,地域紛争である。人種,宗教,文化,経済などの摩擦が火を吹いて軍事衝突になることが増えた。弱体化した国家の抑止力が働きにくくなっている。破壊,虐殺,戦争犯罪,難民発生が広範囲に生じている。こうした事態に対応するのが国際貢献論である。国連安保理による地域紛争への介入,国際軍事力による秩序維持,つまりPKOが強調され,自衛隊の海外派遣が求められた。湾岸戦争への派遣は立ち遅れたが,カンボジアやゴラン高原等には自衛隊の部隊が派遣されている。しかし,PKO方式は,湾岸戦争やカンボジアでは成功するように見えたが,旧ユーゴ,ソマリア,ルアンダなどでは限界に直面した。そこで,1994年に国連開発計画(UNDP)が提唱した〈人間の安全保障〉の考え方,つまり,軍事的安全保障を総合的安全保障へ,国家の安全保障を市民の生活の安全保障へと転換する長期的な戦略が注目されている。
第3の変化が,自衛隊違憲論の消滅である。伝統的に違憲論の中心であった社会党は,自民党との連立政権を樹立するために党内の手続きも抜きにして合憲論に転じ,これを機会に,違憲論を支えていた労働運動,市民運動,ジャーナリズムも沈滞した。その後は一部に〈意地でも違憲〉論があるだけである。
これらの動きに立って,1997年には日米安全保障条約の再定義,ガイドラインの改定が行われ,日本は,自国の安全の維持とは無関係な〈周辺事態〉への官民挙げての軍事的な対応を承諾した。自衛隊はその核心として位置づけられており,これはまったく新しい任務であり,自衛隊の歴史は大きな転換点を通過したことになる。
自衛隊も政治の産物であるからその性格には戦後政治が色濃く反映しており,それらのうちには,法原則化しているものも少なくない。以下,現在の自衛隊の特色と問題点を列記する。
(1)自衛隊は,特別職国家公務員たる自衛官によって構成されている。この点で,一般の兵員を徴兵で集めた旧軍と異なる。自衛隊が徴兵制度を採用するならば,憲法9条や憲法前文の平和的生存権侵害にとどまらず,憲法18条の〈意に反する苦役からの自由〉にも違反すると考えられていたが,政府は1970年の《防衛白書》刊行を機会に態度を改め,徴兵制でも合憲の余地があるとの解釈を示した。
(2)自衛隊は制服軍人の独走を防ぐためにシビリアン・コントロール(文民統制)の下にあるとされる。それは,国会による監視,文民で構成される内閣による監督(憲法66条2項,〈国防会議の構成等に関する法律〉),主として文官の官僚で構成される防衛庁内局による統制などから成り立っている原則であるが,制服軍人の軍拡要求をおさえるのは容易でなく,また,日米安保条約による日米両国軍隊の直接的な接触や協力は,日本の憲法や政治では十分にコントロールできない外交上の問題を生みだす。
(3)政府見解によれば,自衛隊が合憲とされる自衛力の範囲は,主観および客観,つまり,主観的にも自衛を目的として編成され,客観的にも自衛のための必要最小限の行動しかとれない軍事組織に限定されている(主観・客観説)。もっとも,ここにいう客観的限界は,時々の政治状態,軍事情勢や軍事技術の発達により流動的であるとされるので,自衛力の範囲は明確でない。初期の政府見解では自衛隊が実力を行使できる範囲は領土,領空,領海に限定されていたが,その後,侵略を防止するために必要があれば公海上での戦闘も可能とされ,さらに,明らかに日本を攻撃しようとしている場合には,他国領内の侵略軍発進基地を攻撃することまでも許されるとされている。
(4)国連憲章51条は集団的自衛権を認めている。集団的自衛権とは,自国と特別の関係にある国に対して第三国が攻撃,侵略を行ったときに,自国が同様に攻撃,侵略されていないので固有の自衛権発動の要件に欠けるにもかかわらず,その第三国に軍事的に反撃する権利である。これは,第2次大戦後の集団的安全保障体制の鍵となる法概念であるが,日本は憲法上それを否定している。日米安保条約に関しても日本国政府はこうした解釈を採り,その代わりに,在日米軍に対する攻撃は同時に日本の領土,領空,領海への攻撃になるから固有の自衛権による共同の反撃を行うとしてきた。こうした,もってまわった考え方は,集団的自衛権の概念を中心に諸国との安全保障条約を考えるアメリカ側と微妙なずれを呼んでいる。
(5)核兵器については一般には自衛力の範囲を超えた装備として,ICBM,長距離戦略爆撃機などとともに憲法上その保持が禁止されていると考えられている。政府は,戦術用核兵器は許容されているとの解釈に立ち,自衛隊も,核戦場でも戦闘力を失わないように装備されている。そうした核戦争を容認する態度には強い疑問がある。被爆国としての日本には,非核三原則(1968)が国是として存在しており,それは政府の行為をも拘束するのである。
(6)海外派兵は,自衛権の範囲を超えるものとして憲法上禁止される。武器輸出も,武器輸出禁止三原則(通産大臣が,(1)共産圏,(2)国連が武器の輸出を禁止した国,(3)国際紛争の当事国またはそのおそれのある国への武器輸出を承認しないという原則。1967年)に拘束される。国連のPKO活動への参加は,直接に戦闘行動に参加しない後方の補給・輸送業務中心であれば合憲とされ,すでに実施されている。
(7)治安出動は,当初は自衛隊の主要な任務の一つであった。それは,日本を直接に侵略する能力のない対象国が,国内の野党勢力を扇動・操作して間接侵略することがおそれられたからである。1950-60年代には,とりわけ陸上自衛隊を中心に治安出動の諸計画が練られ,60年安保改定期には,実際に出動待機が命じられた。戦前の二・二六事件や諸外国の軍事クーデタの例から,治安出動は自衛隊のクーデタに道を開くものとしてとくに強い反発をうけた。しかし,1970年代に入ると,警察力の強化,とくに機動隊の増強により,自衛隊は〈国民に銃を向ける〉治安出動から手を引くことができるようになった。
(8)自衛隊は,建軍のいきさつからして国民の十分な理解と協力を期待できなかったことから,みずからをガードマンにたとえた〈戸締り防衛論〉を宣伝していたが,新安保条約下では,国家の総力を挙げた戦争を想定し,〈三矢研究〉(1963年。そこでは非常事態措置諸法令の研究が行われており,情勢に応じて〈戒厳〉〈強制服役〉等,多くの法案の国会提出が検討されている)などで訓練を重ねるとともに,〈有事立法〉の研究,整備を行っている(防衛庁は1977年以来,有事法制の研究を進めている。なお自衛隊法103条は,防衛出動時の物資の収用等について定めている)。この場合に,国民はガードマンに守られて安眠できるどころか,戦時中のような戦争協力を求められることになるので,総力戦体制の再現をおそれる人々からの批判を浴びた。
(9)1997年の日米安保条約再定義,ガイドラインの改定によって,自衛隊にはアジアの地域紛争への介入を意味する〈周辺事態〉への対応という課題が生じた。直接は,朝鮮半島の紛争が焦点となるが,台湾問題などデリケートな問題も多い。ところが,1990年代に自衛隊違憲論が沈滞したあとに生じたのは,広く国民のあいだに蔓延した安全保障問題への無関心である。〈周辺事態〉への対処が世論の批判を生んでいないのは支持されたからではなく,無関心,無理解の結果にすぎない。
日本は,平和保障ないし安全保障の問題が憲法問題として登場する特異な国家である。憲法の制定当時に国連による安全保障を大きく期待して非武装に踏みきったことには疑問はないが,その後の国際情勢の変化は憲法の期待とは逆の方向に進み,東西の軍事対立が激化した。そこで,憲法のいう非武装を堅持したうえで東西対立に中立で臨もうとする立場と,国連による安全保障が非現実的になった以上,それに代わる日米の安保条約を中心にして再軍備で補完する方策を採るべきだとする立場の激しい対立を招いた。前者から自衛隊違憲論が,後者から合憲論が唱えられるのは当然である。
一方,違憲審査制の下で判断を迫られた裁判所のうちでは,自衛隊違憲を唱えた長沼ナイキ訴訟第一審判決は別として,多くの裁判所が消極的であり,恵庭(えにわ)事件のように判断を回避したり,長沼ナイキ訴訟第二審判決,百里訴訟第一審判決のように統治行為論を用いたりしている。最高裁も判断には慎重であり,論争の結着は政治の場にゆだねられている。
→戦争の放棄
執筆者:江橋 崇
自衛隊には,防衛庁(2006年防衛省となる)長官の下に,防衛政務次官1人,事務次官1人,参事官10人以内が置かれるほか,防衛庁本庁(自衛隊離職者就職審査会を除く)と防衛施設庁(総務部に置かれる調停官,労務部および付属機関を除く)が置かれている。防衛庁と自衛隊はほぼ同一の組織と考えられており,防衛庁が国家行政組織法上の行政管理という機能面からとらえられているのに反し,自衛隊はその任務である防衛行動という機能面からとらえられたものと解されている。したがって,自衛隊離職者就職審査会等は,その任務が防衛行動と直接かかわるものではないため,防衛庁の組織には属しているが,自衛隊の組織からは除かれている。
防衛庁本庁は,内部部局,陸・海・空自衛隊,統合幕僚会議および付属機関からなる。
(1)内部部局 一般に内局とよばれる。内局は,長官官房のほか,防衛局,運用局,人事教育局,経理局,装備局の5局からなり(1997年10月現在),各局はそれぞれの所掌に従い,主として自衛隊の基本に関する事項をつかさどっている。内局の長官官房に官房長が,各局に局長が置かれ参事官をもってあてられており,内局の職員は主として文官から構成されている。
(2)陸・海・空自衛隊 各自衛隊は,それぞれ幕僚監部ならびに幕僚長の監督を受ける部隊および機関からなる。
各幕僚監部は,各自衛隊のそれぞれの隊務に関する長官の幕僚機関であり,各自衛隊の計画立案,部隊等の管理および運営の調整等に関する事務をつかさどる。その職員は主として自衛官であるが,所要に応じ事務官,技官等を職員として置いている。陸・海・空幕僚長は,それぞれ陸・海・空自衛官をもってあてられ,各幕僚監部の長として,長官の指揮監督を受け,それぞれの幕僚監部の事務を掌理する。また,幕僚長は,長官の指揮監督を受け,自衛隊の隊務および隊員の服務を監督するほか,各自衛隊の隊務に関しそれぞれ最高の専門的助言者として長官を補佐する。
陸上自衛隊の部隊は,方面隊その他の長官直轄部隊からなり,海上自衛隊の部隊は,自衛艦隊,地方隊,教育航空集団,練習艦隊,中央通信隊群その他の長官直轄部隊からなり,航空自衛隊の部隊は,航空総隊,航空支援集団,航空教育集団,航空開発実験集団その他の長官直轄部隊からなる。各自衛隊の機関には,学校,補給処,病院および自衛官の募集を主たる任務とする地方連絡部があり,このうち自衛隊体育学校,自衛隊中央病院,および自衛隊地方連絡部は,各自衛隊の共同の機関とされている。
(3)統合幕僚会議 統合幕僚会議は,統合防衛計画,および統合後方補給計画の作成,出動時における自衛隊に対する指揮命令の基本等に関し長官を補佐する。統合幕僚会議は,議長ならびに陸・海・空幕僚長をもって組織される。議長は専任とし,自衛官の最上位にあるものとされている。
(4)付属機関 防衛庁本庁には,付属機関として防衛研究所,防衛大学校,防衛医科大学校,技術研究本部,調達実施本部,自衛隊離職者就職審査会が置かれ,自衛隊の活動の支援にあたっている。
防衛研究所は,自衛隊の管理および運営に関する基本的な調査研究ならびに幹部自衛官および幹部職員の教育訓練等を,防衛大学校は,旧軍の陸軍士官学校および海軍兵学校に相当し幹部自衛官となるべき者の教育訓練等を,防衛医科大学校は,医師である幹部自衛官となるべき者の教育訓練等を,技術研究本部は,自衛隊の装備品等についての技術的調査研究,考案,設計,試作および試験等を,調達実施本部は,自衛隊の任務遂行に必要な装備品等の調達を,それぞれ行う。また,自衛隊離職者就職審査会は,自衛隊員が,離職後において,在職中の職務と密接な関係にある企業の役員等に就職しようとする場合に,その承認の公正さを期するための機関である。
防衛施設庁は,防衛庁の外局として置かれる国の行政機関であり,その任務は,自衛隊の施設の取得およびこれに関する事務,建設工事の実施,ならびに自衛隊の施設に供される行政財産の管理を行うとともに,在日米軍に対する施設および区域の提供や,在日米軍等に勤務する日本人従業員の雇用などを行う。
内閣総理大臣は,内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有しており,防衛庁長官は,内閣総理大臣の指揮監督を受け,自衛隊の隊務を統括する防衛庁長官も文民である国務大臣をもってあてられる。また,各自衛隊の部隊等に対する長官の命令は,各幕僚長を通じて執行される。さらに,防衛出動および治安出動を行う際,特別に編成された部隊で,陸・海・空自衛隊の部隊のいずれか2以上から成る統合部隊の行動についての長官の命令は,統合幕僚会議の議長を通じて執行する。また,自衛隊の定員,組織,予算等の重要な事項は国会で議決され,防衛出動については国会の承認が必要とされている。
次に,内閣は,国会に提出する法律案や予算案を決定し,防衛にかかわる重要な方針や計画を決定する。内閣にはまた,国防に関する重要事項を審議する機関として安全保障会議が置かれ,防衛計画の大綱,防衛出動の可否等国防に関する重要事項を審議する。
自衛隊の防衛力整備は,第1次から第4次にわたる防衛力整備計画を経て,1977年度以降1995年度までの間は,防衛のあり方の指針として策定された〈防衛計画の大綱〉(以下,大綱という)に従い,85年度までは中期の防衛力整備の見積りである中期業務見積り(以下,中業という)を参考として,それ以降は中期防衛力整備計画(以下,中期防という)に従って,大綱に定められた防衛力の水準の達成を目標に進められた。さらに1996年度以降は,時代の変化に適応するために策定された〈新防衛大綱〉に基づいて,新中期防(1996-2000年)のもとで防衛力整備が進行中である。
1957年6月,国防会議決定および閣議了解。一次防は,1958年度から60年度までの3ヵ年を対象とする計画であり,当時朝鮮戦争の終了にあたり日本から急速に撤退しつつあった米地上軍の縮小に伴い,陸上防衛力を整備することに力点を置くとともに,海上および航空防衛力についても,一応の基礎体制をつくりあげること,すなわち,骨幹防衛力を整備することを主眼として策定された。一次防においては,艦艇および航空機の一部をはじめ装備品の相当部分につきアメリカからの供与を予定し,陸上自衛官18万人,艦艇約220隻約12万4000トン,航空機約1300機を整備することを目標とした。
1961年7月,国防会議および閣議決定。61年度は単年度の計画として防衛力整備が進められ,62年度からの二次防に引き継がれた。二次防は,62年度から66年度までの5ヵ年を対象とする計画であり,初めて防衛力整備の目標とする事態を,日米安全保障の下に,通常兵器による局地戦以下の侵略に対処することと定め,これに対して有効に対処しうる防衛力を持つことが防衛力整備の目的であることを明確にした。そして,このための防衛体制の基盤を確立するため,61年度末までに達成される骨幹防衛力の内容充実とともに精鋭な部隊建設のための基礎を培い,陸・海・空自衛隊の統合防衛力の向上を図ることなどを主眼として策定された。二次防においては,旧式な装備品などの計画的更新,対空ミサイルの導入その他近代的精鋭装備の運用研究を行うこととし,陸上自衛官18万人,予備自衛官3万人,艦艇約230隻約14万トン,航空機約1000機,そのほか地対空ミサイル部隊4隊を整備することを目標とした。
1966年11月,国防会議および閣議決定。三次防は,1967年度から71年度までの5ヵ年を対象とする計画であり,日本が整備すべき防衛力は二次防と同様,日米安全保障体制を基調として,通常兵器による局地戦以下の侵略事態に対し,最も有効に対応しうる効率的なものを目標とした。この目標を漸進的に達成するため,計画時点の防衛力を基盤として,内外の情勢,国力の伸張,国際的地位の向上などを勘案しつつ,陸・海・空自衛隊の内容の充実,強化を図るとともに,自衛隊員の士気を高揚し精鋭部隊の建設に努めるほか,技術研究の推進,装備の適切な国産を行い,防衛基盤の培養に資するよう配意された。三次防においては,とくに周辺海域防衛能力および重要地域防空能力の強化,各種機動力の増強などを重視し,陸上自衛官18万人,艦艇約200隻約14万2000トン,航空機約800機を整備することなどを目標とした。
1972年2月,国防会議および閣議決定。四次防は,1972年度から76年度までの5ヵ年を対象とする計画であり,三次防の考え方を継承して策定されたが,新たに沖縄の施政権返還に伴う同地域の防衛にも配意されて作成された。四次防においては,とくに米軍供与になる老朽装備の近代化による更新,三次防と同様の調達ペースによる整備の充実,周辺海域防衛能力および重要地域防空能力の強化,各種機動力の増強などを重視し,陸上自衛官18万人,艦艇約170隻約21万4000トン,航空機約800機を整備することなどを目標としていた。しかし,四次防期間中に生じた第1次石油危機に伴う経済財政事情の悪化により,当初計画された主要装備の整備数量の削減が,75年12月30日の国防会議,同31日の閣議で決定された。
1976年10月国防会議および閣議決定(坂田道太長官)。大綱は,従来の四次防までの防衛力整備計画のように固定した計画期間を定めたり,計画ごとに保有すべき防衛力の具体的規模を定める方式をとらず,内外情勢が大きく変化しないという前提の下に,今後恒常的に保有すべき防衛力の水準を明示し,その水準の達成,維持のための整備は毎年度決定していくこととした。また,期間内における整備内容を主体とする従来の防衛力整備計画と異なり,防衛力の整備,維持および運営の基本的指針をも示しており,以後の自衛隊の管理,運営の準拠となるものであった。大綱は,従来の防衛力整備計画と異なり,対処すべき侵略事態を〈限定的かつ小規模な侵略〉とし,それに対し〈原則として独力でこれを排除〉しうる防衛力を目標に,警戒のための態勢,直接侵略事態に対処する態勢,指揮通信の態勢等日本が常時保有すべき各種防衛機能と,それに基づき必要とする各自衛隊の基幹部隊,主要装備等保有すべき基盤的な防衛力および運用体制を具体的に明示し,それにより防衛庁,自衛隊の任務範囲を明確にした。また,大綱においては,従来の防衛力整備計画と同様,核の脅威に対しては,アメリカの核抑止力に依存することとしていた。
なお,大綱に基づく防衛力整備にあたっては,大綱において保有すべき防衛力の水準を明示したこととあわせ,年々の防衛関係費についても大まかな指針を示す必要があることから,1976年11月の閣議決定で〈防衛関係費は当面GNPの1%以内をめどとする〉こととした。〈防衛関係費〉の詳細については各項を参照されたい。
大綱に基づき各年度の防衛力整備を進めるにあたり,各自衛隊の実施する主要な事業の概略を将来にわたり見定めておくことが必要となり中業が作成された。中業は原則として,その作成する年度の翌々年度以降5年間を対象としており,また,中業は,毎年度見直しを行い,3年ごとに新たな見積りを作成し直している。
(1)1980年度から84年度までを対象とする中期業務見積り(以下,五三中業という。79年7月長官承認) 五三中業においては大綱に定める基幹部隊の早期整備,整備近代化による陸上自衛隊の火力,機動力,海上自衛隊の対潜,対艦,対空能力,航空自衛隊の要撃戦闘能力等,各種防衛機能の整備充実を図るほか,後方支援,教育訓練態勢等の整備充実を図った。
(2)1983年度から87年度までを対象とする中期業務見積り(以下,五六中業という。82年7月国防会議了承) 五六中業は,日本を取り巻いている国際情勢の厳しさ,たとえば,極東ソ連軍の増強等を背景に,大綱に定める防衛力の水準をおおむね達成することを目標とした。作成にあたっては,四面環海の日本の国土,地勢等に適した防空能力,水際防御能力および海上交通保護のための対潜能力等の充実近代化,電子戦能力,継戦能力,即応態勢および抗堪性の向上が重視された。なお,近年の日本の防衛力整備に対する内外の関心の高まり等を踏まえ,シビリアン・コントロールの観点から,五六中業は五三中業と異なり,国防会議に付議され了承された。その後84年に86-90年度対象の五九中業の作成方針を国防会議が承認。85年には五九中業を政府計画へ格上げした中期防衛力整備計画が閣議決定された。
国防会議および閣議の決定を経て,〈防衛計画の大綱〉の枠組みの下で,これに定められた防衛力の水準の達成を図ることを目標とした。1986年度から90年度を対象とする最初の中期防は,国際軍事情勢および諸外国の技術水準の動向を考慮し,3自衛隊の各種防衛機能を精査し,資源の重点配分に努めることにした。具体的には,本土防空能力および周辺海域における海上交通の安全確保能力の向上に努めるとともに師団の近代化および編成の多様化,洋上・水際撃破能力の強化が重視された。経費は,おおむね18兆4000億円をめどとすることと決定された。
1991年度から95年度を対象とする2度目の中期防は,国際情勢の大きな変化に対応しようとするものであった。五六中業で最も厳しかった東西関係は,対話と協調の時代に移行しつつあり,特にヨーロッパにおいては東西両ドイツの統一が達成された。また,これまで質量両面にわたり一貫して増強されてきた極東ソ連軍の動向については,質的向上は依然として続いているものの,量的には削減傾向がみられる,という認識が示された(ソ連は本中期防初年度の12月に崩壊するという国際情勢の劇的変化が生じた)。必要な経費の総額は,92年12月に22兆1700億円(当初計画より5800億円マイナス)をめどとすることに変更された。
正式には〈平成8年度以降に係る防衛計画の大綱〉と名づけられ,95年11月の安全保障会議および閣議において決定された(衛藤征士郎長官)。これは,前大綱策定後19年が経過し,米ソ対立という国際情勢の基本構造が崩れ,他方で宗教・民族・国境問題等に根ざす対立がむしろ顕在化し,多様な地域紛争が発生するなどの状況の変化とともに,自衛隊の役割に関しても,主業務である日本の防衛に加えて,大規模災害への対応,国際平和協力業務への参加等,多面化してきたことに適応するために生まれたものであり,1976年制定の前大綱に代わって,今後の日本の防衛力の規模等を示す指針として決定された。
防衛力の整備目標として,陸上自衛隊の編成定数が16万人(前大綱では18万人)と減少し,うち1.5万人は即応予備自衛官をもって充てることとされた。陸・海・空自衛隊の主要装備,また一部の部隊数も減少することになった。新大綱が発表された当日,衛藤防衛庁長官は談話を発表し,その中で今後の防衛力のあるべき姿について次の3ヵ条に要約している。(1)規模についてはコンパクトなものを目指す。(2)質的には充実し,多様な事態に有効に対応しうるもの。(3)事態の推移に円滑に対応しうる弾力性を確保しうるもの。
1996年度から2000年度を対象とする新中期防衛力整備計画であり,新防衛大綱の下では,初めてのものである。95年12月15日に閣議決定され,次のような基本方針に基づいている。
(1)基幹部隊,主要装備については,新大綱に定めた水準に円滑に移行すべく,効率化,コンパクト化を推進する。
(2)日米安保体制の信頼性向上のための施策を引き続き推進する。
(3)より安定した安全保障環境の構築への貢献のための施策を推進する。
新中期防末の防衛力水準については,新大綱の定めたレベルに移行する過渡期として,陸上自衛隊については,編成定数17万2000人(うち即応予備自衛官5000人)をめどとすること,海上自衛隊については地方隊所属の2個護衛隊の廃止,掃海部隊2個群を1個群へ集約すること等,航空自衛隊では要撃戦闘機の1個飛行隊の廃止等が定められた。
→海上自衛隊 →航空自衛隊 →防衛関係費 →防衛庁 →陸上自衛隊
執筆者:木村 和夫
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内閣総理大臣を最高指揮監督者とする現代日本の防衛組織。MSA協定での日米の合意を背景に,1954年(昭和29)6月9日,防衛庁設置法・自衛隊法(防衛二法)が公布されて発足。「直接侵略及び間接侵略」からの防衛を任務とし,保安隊・(海上)警備隊の改編と航空自衛隊の新設により陸・海・空3部隊が組織され,関連諸機関も整備された。冷戦期の自衛隊は日米安保体制下において「専守防衛」方針をとりつつ在日米軍を補完するという明確な性格を付与され,政治的には,戦争を忌避する国民感情を背景に,その存在と憲法9条との関係が重大な争点となっていた。90年代初頭には自衛隊の海外派遣が新しい争点として浮上。湾岸戦争終結後の91年(平成3)4月ペルシア湾に掃海艇が派遣され,92年6月にはPKO協力法が成立して,カンボジアなどへの部隊派遣が実施された。2014年現在で総隊員数約24.8万。対潜水艦戦・要撃戦闘などの能力はきわめて高い水準に達している。
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…自衛隊の合憲性がはじめて本格的に裁判所で争われた事件。北海道千歳郡恵庭町(現,恵庭市)にある陸上自衛隊の演習場付近で酪農業を営む野崎(健美,美晴)兄弟は,自衛隊の実弾射撃演習などで乳牛に多くの被害(流産や乳量減少など)を受け,たび重なる抗議も無視されたので,1962年12月11,12日,自衛隊の演習本部と射撃陣地を連絡する電話通信線を数ヵ所にわたって切断した。…
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[日本国憲法における戦争の放棄]
上のような背景を考慮して,日本国憲法における戦争の放棄の特色を考えると,第1に,平和的生存権という新しい人権を保障する目標のもとに戦争放棄が位置づけられていること,第2に,事実上の戦争を含めて広く戦争を放棄していること,第3に,戦争放棄に対する実効的方法として新たに〈陸海空軍その他の戦力〉の不保持と〈交戦権〉の否認をつけ加え,結局,自衛権を名目とした戦争をも否定していること,の3点を指摘することができる。 ところで憲法9条の戦争放棄および戦力の不保持に関する政府の解釈は,大きく分けて,(1)自衛権をも実質的に否定する見解をとった時期(憲法制定時から1949年ごろまで),(2)〈武力なき自衛権〉を肯定する見解をとった時期(1950年以降53年まで),(3)〈自衛力〉論にもとづいて軍事力による自衛権を主張するに至った時期(1954年以降),さらに,(4)1991年の湾岸戦争時の〈国際貢献〉論,およびPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)の成立(1992年6月)を転機として自衛隊を一定の要件のもとに国連部隊(PKO)に参加させるに至った時期(1991年以降)の四つの時期に分けられる。(2)の時期は戦後日本の再軍備の始動期に相当するが,朝鮮戦争の勃発(1950年6月)とともに警察予備隊が創設され(1950年8月),またサンフランシスコ講和条約による片面講和の際に同時に締結された旧日米安全保障条約(1951年9月締結,52年4月28日発効)を背景として保安庁が設立され(1952年8月),保安隊・警備隊という実力組織が成立した。…
…自衛隊の合憲性が争われた訴訟。防衛庁は,第三次防衛力整備計画の一環として北海道夕張郡長沼町に航空自衛隊の地対空誘導弾ナイキの基地を建設するために,1968年6月,同町所在の馬追山保安林について保安林指定の解除を申請したところ,農林大臣は,69年7月,この申請を認める処分を行った。…
※「自衛隊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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