村社講平(読み)むらこそこうへい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

村社講平
むらこそこうへい

[生]1905.8.29. 宮崎,宮崎
[没]1998.7.8. 兵庫,明石
陸上競技選手。 1939年中央大学卒業。 1936年 31歳でベルリン・オリンピック競技大会の代表となり,5000m,1万mに出場しフィンランド勢を相手に健闘,ともに4位となった。 1956年メルボルン・オリンピック競技大会ではマラソン監督を務めた。 1971年紫綬褒章受章。また毎日新聞記者として,びわ湖毎日マラソンや全国高校駅伝大会の創設・発展に尽力した。主著『長距離を走りつづけて』 (1976) 。

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百科事典マイペディアの解説

村社講平【むらこそこうへい】

陸上競技選手,宮崎県出身。宮崎中学時代にはテニス選手。兵役を終え県立図書館に勤めていたが,1933年27歳で中央大学進学,独創的な練習で次第に長距離走選手としての頭角を現し,第21回全日本選手権大会で5000m,1万m両種目に優勝,日本長距離界の第一人者となった。1936年のベルリンオリンピックでは162cmと小柄な村社が,フィンランドをはじめ長距離王国といわれた北欧の大柄な選手を従えて先頭を走る姿が観衆喝采を浴び,最終的には両種目とも4位に終わるが,世界の人々に強い印象を与えた。その健闘ぶりは同オリンピックの記録映画《民族の祭典》によく描かれている。第2次世界戦後は,毎日新聞社に勤めながら後進の指導に当たり,自らの走法を受け継いだ円谷幸吉東京オリンピック3位入賞を喜んだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

村社講平 むらこそ-こうへい

1905-1998 昭和-平成時代の陸上競技選手,指導者。
明治38年8月29日生まれ。昭和11年ベルリン五輪の5000mと1万mで4位入賞。1万mではスタートからトップにとびだし,大柄のフィンランド勢3人と大接戦を演じた。戦後,毎日新聞運動部記者となり,メルボルン五輪のマラソンコーチなどをつとめた。平成10年7月8日死去。92歳。宮崎県出身。中央大卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

むらこそこうへい【村社講平】

1905(明治38)‐
日本陸上競技長距離界の一時代をつくったランナー。酒造業を営む一家の五男として,宮崎県赤江町に生まれる。日露講和条約締結に因んで講平と命名されたという。宮崎中学時代に,同校卒業の熊谷一弥選手のアントワープ・オリンピック(1920)におけるテニス競技銀メダル獲得の報道に接し,長距離競走への興味を高めた。兵役を終えて県立図書館に勤め,織田幹雄の金メダル獲得に触発されながら一層練習に打ち込む。27歳にして中央大学進学を決意し,苦学と独創的な練習によって,第21回全日本選手権大会で5000m,1万m両種目に優勝。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

村社講平
むらこそこうへい
(1905―1998)

オリンピックに出場した名ランナー。宮崎県生まれ。1936年(昭和11)のオリンピック・ベルリン大会で陸上5000メートル、1万メートルとも4位だったが、1万メートルではフィンランドの強豪サルミーネン、アスコラ、イソロフを相手に最後までトップを争った。当時の村社は身長160センチメートル、体重50キログラムと日本人としても小柄だったが、雲つくような大男の外人選手に混じって、スタートからトップにたった。6000メートルまでは首位を譲らなかったが、その後は抜きつ抜かれつの死闘だった。この小柄な名も知らぬ日本人の健闘に「和製人間機関車」の異名がつけられた。このとき優勝したサルミーネンとの差はわずか10秒ほどだった。その後、マラソン監督としてオリンピック・メルボルン大会(1956)に参加。71年(昭和46)には紫綬(しじゅ)褒章を受章した。[石井恒男]
『村社講平著『長距離を走りつづけて』(1976・ベースボール・マガジン社)』

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