日本歴史地名大系 「円阿弥村」の解説 円阿弥村えんなみむら 埼玉県:与野市円阿弥村[現在地名]与野市円阿弥一―七丁目・本町西(ほんまちにし)四―五丁目八王子(はちおうじ)村の北に位置し、東は与野町など、西は白鍬(しらくわ)村(現浦和市)・側海斗(そばがいと)村(現大宮市)。村の南方を八王子村境より赤山(あかやま)街道が通る。御屋敷山(おやしきやま)と称する一帯があり、伝承では関東郡代伊奈氏の陣屋跡とされるが(風土記稿)、中世の城館跡とする見方が有力(与野市史)。植田谷(うえたや)領に属した(風土記稿)。田園簿では高八二石余、うち草銭永一八一文、反別田三反・畑二一町六反余で幕府領。寛文一〇年(一六七〇)の植田谷領拾八ヶ村御支配附村高帳(正野家文書)によると、幕府領(八二石余)と旗本多門領(八石余)の相給(以後幕末に至る)。多門氏は寛永一〇年(一六三三)側海斗村で一〇七石余、水判土(みずはた)村(現大宮市)で九二石余を宛行われている(「寛政重修諸家譜」・田園簿)。寛文一〇年の前掲村高帳では同氏の側海斗村の知行高は九九石余と記され八石余の減少となっているが、これは鴨(かも)川の氾濫による川欠けが原因と考えられ(大宮市史)、その替地として当村の内で寛文年間までに宛行われたものと推定される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by