日本歴史地名大系 「与野市」の解説 与野市よのし 面積:八・二八平方キロ埼玉県の南東部に位置し、北は大宮市、西・南・東の三方は浦和市に囲まれる。市域は東西三・五キロ、南北五・五キロの細長い形をしている。大宮台地の南西部にあたる台地が東西に分れ、東側には浦和・大宮支台が舌状に延び、西側には与野支台が延びる。東西両台地の間の市域中央には幅約五〇〇メートルの高沼(こうぬま)低地が南北に連なり、そのほぼ中央を鴻沼(こうぬま)(高沼)排水路が南流する。与野支台の南西には鴨(かも)川・荒川によって形成された沖積低地が広がっている。〔原始・古代〕東西両台地の関東ローム層の遺跡十数ヵ所から黒曜石・安山岩・頁岩などを材料として作られた槍先形尖頭器・ナイフ形石器・掻器・削器・敲石・錐形石器・切出形石器などの旧石器が出土し、うち二ヵ所の遺跡からは当時の炉跡も発見されている。縄文・弥生時代の遺跡は数多く発見されている。代表的な遺跡として縄文時代前期の大戸(おおと)と円阿弥(えんなみ)の貝塚、弥生時代の諏訪坂(すわざか)遺跡や中里前原(なかざとまえはら)遺跡群があり、同遺跡群は環濠集落遺跡として注目される。現存する古墳はないが、古墳時代の遺跡は高沼低地を挟む東西の台地上で数多く発見されている。与野支台の東縁には札之辻(ふだのつじ)一号遺跡(鈴谷五丁目)があり、古墳時代後期の竪穴住居跡一四が確認され、坏・甕・甑・滑石製紡錘車などの遺物が出土している。また殿ノ前(とののまえ)遺跡(八王子五丁目)からは五世紀代のものとみられる須恵器の樽形や高坏なども出土しており、朝鮮半島からの渡来品と推定されている。奈良時代の遺跡としては上峰(うえみね)遺跡(上峰二丁目)・寺田(てらだ)遺跡(桜丘二丁目)などがある。上峰遺跡から発見された竪穴住居跡は八・五×八・三メートルの隅丸長方形で、竈が北側にあり、その右側には貯蔵穴を備えている。寺田遺跡の竪穴住居跡もほぼ同規模で、両遺跡とも竪穴住居跡の数は少なく集落の様子は知ることができない。平安時代の遺跡としては八王子前原(はちおうじまえはら)遺跡(八王子四丁目)・曲庭(まにわ)遺跡(大戸五丁目)・南上峰遺跡(上峰二丁目)などがある。南上峰遺跡から発見された竪穴住居跡は竈を備えているが、三・八×三・八メートルの隅丸方形の小型のもの。平安時代に入ると、竪穴住居跡は与野支台の西側縁辺、荒川低地に臨む場所に急速に増えていくことが遺跡の分布調査の結果からわかる。また市道六号線地下(しどうろくごうせんちか)遺跡(八王子一丁目)から発見された蔵骨器(県指定文化財)は愛知県豊田(とよた)市やその周辺に分布する猿投山西南麓(さなげやませいなんろく)古窯跡群で製作された通称猿投とよばれる造形的に優れた陶器で、一〇世紀前半頃のものと推定されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by