切支丹屋敷(読み)きりしたんやしき

共同通信ニュース用語解説 「切支丹屋敷」の解説

切支丹屋敷

キリスト教の宣教や布教が禁じられていた江戸時代に、イタリア人やポルトガル人などキリスト教の宣教師信者ら計約20人が収容されていた建物で、現在の東京都文京区小日向にあった。宣教活動や信者を取り締まる「宗門改役しゅうもんあらためやく」の下屋敷内に1646年に建てられた。区によると当初の広さは約2万3千平方メートルだったが、徐々に縮小。1724年の火災で全焼したことにより、収容者はゼロとなったが、宗門改役が廃止された1792年まで存続した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「切支丹屋敷」の意味・わかりやすい解説

切支丹屋敷
きりしたんやしき

江戸・小石川小日向(こひなた)(東京都文京区)に設けられ、キリシタン伴天連(バテレン)らを収容した所で、山屋敷ともよばれた。宗門改役(あらためやく)を兼ねた大目付井上筑後守政重(ちくごのかみまさしげ)がその下屋敷に、1643年(寛永20)日本へ潜入したイタリア人伴天連キアラ(岡本三右衛門)らを収容、宗門改の情報を集めたのに始まり、1646年(正保3)には籠舎(ろうしゃ)・倉庫などを整備した。1708年(宝永5)に潜入した伴天連シドッチも翌年ここに収容され(1715年牢死)、新井白石(あらいはくせき)が直接尋問して互いにその人物・識見を評価しあった。白石はその影響を受け、『西洋紀聞』その他を著し、キリシタンの日本侵略説を否定、世界的視野の拡大をもたらし、洋学摂取への道を開いた。その点において、近世文化史上、重要な遺跡であるが、1724年(享保9)籠舎は焼失したまま収容者もなく再建されず、1792年(寛政4)宗門改役の廃止とともに廃絶した。その後、幕臣に土地が分与され、現在は茗荷谷(みょうがだに)の俗称切支丹坂、俗説的八兵衛石などにわずかにその跡をとどめているにすぎない。

海老沢有道


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世界大百科事典(旧版)内の切支丹屋敷の言及

【切支丹物(吉利支丹物)】より

…近代に入って(明治6年解禁後),南蛮趣味の流行もあり,まず木下杢太郎の連作《南蛮寺門前》(1909作),《絵踏(えぶみ)長崎殉教奇談》(1913作),《天草四郎》(1914作),《常長》《訴人》(以上1928作)などが現れ,近代人の苦悩を重ねあわせて描いている。ほかに小山内薫の《吉利支丹信長》(1926作),岡本綺堂の《切支丹屋敷》(1913作),長田秀雄の《沢野忠庵》(1927作),松居松葉の《聖母(サンタ)・(マリア)》(1923年5月明治座)など。戦後も石川潭月の舞踊劇《切支丹道成寺》や,田中千禾夫,遠藤周作らの切支丹を題材とした作品がある。…

※「切支丹屋敷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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