江戸幕府がキリシタンを禁圧することを標榜(ひょうぼう)して設けた制度。宗教統制、民衆統制や戸籍制度としての意味をもっていた。
1613年(慶長18)以来たびたび発布されたキリシタン禁令が宗門改の契機となったが、それらには宗門改の具体的な方法が示されていなかったので、幕府や諸藩はさまざまな方法でこれを実施した。その一つは、1629年(寛永6)ごろに長崎で始められた踏絵や、幕府法令にみえる訴人奨励などの、キリシタン摘発を目的とした宗門改であり、いま一つは、反対にキリシタンでないことを証明する宗門改で、寺檀(じだん)関係に基づき檀那寺(だんなでら)が行う寺請(てらうけ)や、人別帳・五人組を利用して村役人が行う俗請(ぞくうけ)などがある。島原・天草一揆(あまくさいっき)でキリシタンがほとんど根絶されると、かえって宗門改は強化され、1640年(寛永17)には幕府に宗門改役が置かれ、64年(寛文4)には諸藩に宗門奉行(ぶぎょう)の設置が命ぜられた。ついで71年には宗旨人別帳の作成による宗門改が制度化され、以来この方法で実施されることになった。このような宗門改の制度化は、キリシタンを摘発することよりも、それを口実とする民衆統制であり宗教統制であって、あわせて領民を把握し身分制を確立しようとする戸籍制度の成立を意味している。
宗旨人別帳の様式は、基本的には、1戸単位に戸主および全家族、奉公人の名前・性別・年齢を記し、これに宗旨と檀那寺名を付したうえで、檀那寺と村役人が請印(うけいん)を加えるというものであるが、藩によって相違があり統一的なものではない。毎年3~6月に作成されることになっていたが、そのつど全住民を集めて実施する藩や、略式にして出生・死没・移動のみを書き上げる藩などさまざまであり、かならずしも全国的に毎年実施されたものではなかった。それには、各藩における内部事情や、かつてのキリシタン勢力の強弱、さらには檀那寺が他領や遠方にあったり、半檀家(家族内で檀那寺を異にする場合)が多かったりする寺檀関係のあり方の違いも影響している。
宗門改を寺請で行うことについては、儒者からの無用論や神道関係を中心とする反発があり、岡山藩などは神道請を実施していたし、近世中期以降には神職を寺請から除外する動きも現れた。明治維新の神仏分離においてこの方向は強化され、氏子(うじこ)調べが立案され実施されたが、全国的に普及するには至らなかった。1872年(明治5)の壬申(じんしん)戸籍には、宗旨人別帳と同様に檀那寺が付記されていたが、翌年のキリスト教禁止高札の撤廃とともに改められ、宗門改の制度は廃止された。
[大桑 斉]
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江戸幕府がキリシタン禁制の徹底化を進めるため実施した民衆統制策。当初は転びキリシタンが転宗した証明として寺請が実施されたが,1637~38年(寛永14~15)には島原の乱が,17世紀中頃には肥前・豊後・美濃・尾張で潜伏キリシタンの露顕事件(崩れ)が発生したのを直接的な契機として,幕府の宗門改役の指導のもとで全人民を対象とする宗門改が制度化された。原則として毎年2月か3月に宗門人別改帳が作成され,特定の檀那寺所属を義務づけられた。明治維新後,1871年(明治4)寺請制にかわって神社による氏子調べに変更されたが成功せず,73年キリシタン禁制の高札撤廃で停止された。
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