初鹿野村(読み)はじかのむら

日本歴史地名大系 「初鹿野村」の解説

初鹿野村
はじかのむら

[現在地名]大和村初鹿野、勝沼かつぬま深沢ふかさわ

甲府盆地東端、川が渓谷をつくる右岸に位置し、古部こぶ瀬々窪せせくぼ水野田みずのた丸林まるばやし川窪かわくぼ・上川窪は本村の内、枝郷に深沢(現勝沼町)横吹よこぶきがある。また西の鶴瀬つるせ村は元禄郷帳に初鹿野村枝郷とみえ、その後に分離したとみられるが、天保郷帳にも当村枝郷の注記がある。

天文二四年(一五五五)九月五日の柏尾山造営勧進状案(大善寺文書)に「初鹿野木賊山」とみえる。同勧進状案に記される大善だいぜん(現勝沼町)の縁起によれば、三枝守国は当地山中において丹波国安大寺から飛来した薬師如来像(のちの大善寺本尊)を見いだしたと伝える。「塩山向嶽禅菴小年代記」は天正一〇年(一五八二)三月の武田家の滅亡に言及して、「同十一日大守勝頼父子御門共ニ、初鹿野於于田野御切腹」と記す。両書の記述から、戦国時代には初鹿野を冠してよぶ地域が木賊とくさ田野たのを含めた現大和村域のほぼ東半分に及んでいたことがうかがえる。天正一一年四月二〇日の棲雲せいうん寺宛の徳川家康印判状写(寺記)では、初鹿野新田分のうち一貫五五〇文と同所越中分四〇〇文が同寺の本寺領として安堵されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報