大和村(読み)だいわむら

日本歴史地名大系 「大和村」の解説

大和村
だいわむら

面積:九七・〇三平方キロ

邑智郡の東部に位置し、東は飯石いいし赤来あかぎ町、南は広島県双三ふたみ作木さくぎ村と羽須美はすみ村、西は瑞穂みずほ町・川本かわもと町、北は邑智町に接する。中国山地脊梁部の中心にあって、南北に貫流する江川によって東部と西部に二分されている。東部には新造地しんぞうじ(七八五・七メートル)高甲田たこうだ(七三三・四メートル)かんむり(五五六・一メートル)登矢とやまる(五四九・四メートル)があり、西部には唐渓からたに(六五八・一メートル)石見いじみ(六二八・八メートル)立掛たちかけ(五六五・一メートル)がある。江川東岸をJR三江線と国道三七五号が並走し、JR線に石見都賀いわみつが石見松原いわみまつばらうしおの三駅がある。全面積の九割を山林が占め、そのうち四割弱が国有林である。国の営林署都賀行つがゆきにあり、事業所として都賀行松原に松原貯木場がある。平地は宮内みやうち村之郷むらのごう比敷ひじきの高原部と江川とその渓谷部に開け、主要集落が散在する。

沿岸部の都賀行の大浦おおうら遺跡・郷上ごうがみ遺跡などから縄文時代の土器などが出土、高原部の宮内の行名ぎようめい(行明)遺跡・石原いしはら遺跡などは古墳時代遺跡で、両地区の開発時期が想定される。古代は邑智郡都賀郷(和名抄)に属したとみられる。


大和村
やまとそん

面積:九〇・〇四平方キロ(境界未定)

大島の中央部北西側に位置する。西部は東シナ海に臨み、北東部は名瀬なぜ市、南東部は住用すみよう村、南西部は宇検うけん村と接する。宇検村境に大島で最高峰湯湾ゆわん(六九四・四メートル)があるほか、山嶺が連なっており、流路の長い河川の発達もなく、山裾が海岸まで迫っている。集落のほとんどは溺れ谷の狭い平坦地に営まれ、これら海岸部を主要地方道の名瀬―瀬戸内せとうち線がめぐる。

天平七年(七三五)聖武天皇が小野朝臣老と高橋連牛養に建てさせた南島の牌が朽壊したため天平勝宝六年(七五四)孝謙天皇がその修造を命じているが、これは島名をはじめ、船の停泊所、水のある所、行程を記載させたもので、遣唐使船が漂着した際に帰向すべき場所とするものであった(「日本書紀」同年二月二〇日条)。この所在地は未詳であるが、後代、享保五年(一七二〇)龍郷たじご(現龍郷町)の田畑佐文仁が湯湾岳の北側の福元ふくもとを開墾した折に一基の古牌を発掘したとされ、当時解読できるものもなく、洪水で流失したというものが、この遣唐使の牌ではないかという。


大和村
やまとむら

面積:四三・三一平方キロ(境界未定)

東山梨郡の南東端部に位置し、東は笹子ささご山を境に大月市、南は東八代郡一宮町、西は勝沼かつぬま町、北は塩山市。川の渓谷に沿って集落が点在する。近世は甲州道中の笹子峠が国中くになか郡内ぐんないを結び、現在国道二〇号・中央自動車道・JR中央本線の笹子トンネルが笹子山の山腹をくり抜いている。

鎌倉時代当村域は深沢ふかさわ郷の一部であった。「甲斐国志」によれば、勝沼(現勝沼町)以東の諸村を深沢と称し、慶長検地ののちに鶴瀬つるせ村・初鹿野はじかの村・日影ひかげ村・田野たの村や勝沼村小佐手おさで村・菱山ひしやま村・柏尾かしお(現勝沼町)牛奥うしおく(現塩山市)がそれぞれ分立したという。しかし鶴瀬・初鹿野・日影・田野はいずれもすでに戦国時代の文献にその名をとどめており、分立を慶長(一五九六―一六一五)以後とする同書の説は当たらない。


大和村
おおわむら

[現在地名]富里町大和

根木名ねこな川左岸、久能くのう村の南に位置し、西に佐倉牧の一つ内野うちの牧が広がる。天正一九年(一五九一)二月二一日の検地帳(大和区有文書)には印東いんとう庄大輪とあり、同帳にみえる検地役人木村因幡守は岩富いわとみ(現佐倉市)城主北条氏勝の家臣であった。「寛文朱印留」でも大輪村として佐倉藩領で、幕末まで同じ。ただし切添新田幕府領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では大和村として高一五六石余。


大和村
おわむら

[現在地名]諏訪市大和

諏訪湖の東岸にあり、北西は高木たかき(現諏訪郡下諏訪町)、南東は下桑原しもくわばら村に接する。

嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」及び「諸神勧請段」に、「下ノ宮小和ノ浜ヨリヨスル波 ヨスル波ツカサマサレハシキノマニヨツ」という神楽歌があり、小和と記されている。また諏訪湖の御神渡おみわたりについて記した「当社神幸記」の享徳三年(一四五四)の条に「佐久新海明神者、自大和浜下御天、御参会于湖中候」とあり、以後、「大和浜」は同書に散見される。


大和村
おおわむら

[現在地名]南部町大和

富士川左岸にあり、西は塩沢しおざわ村、南は楮根かぞね(現富沢町)。南部六郷の一つ(甲斐国志)。年未詳一二月一三日の秋山半九郎書状(朝夷一郎家文書)では、南部宿の伝馬につき「大和塩沢」を加えて勤めるよう命じられている。慶長古高帳では高五八石余、幕府領。検地は寛文一〇年(一六七〇)。その後再検地が実施され、延宝五年(一六七七)の検地帳(県立図書館蔵)では山畑などが苅立畑四町七反余に修正。寛文一〇年の検地帳(同館蔵)も再作成され、上田二町九反余・中田一町五反余・下田五町七反余・下々田五反余・山田三畝歩で田地計五町五反余、上畑一町二反余・中畑一町九反余・下畑二町二八反余・下々畑二町五反余・山畑一町四反余・苅立畑四町六反余・屋敷四反余で畑屋敷計一四町五反余、総反別二〇町一反余・高一〇二石余、屋敷数三〇に改正された。


大和村
やまとむら

面積:二九・一三平方キロ

郡の北東部に位置し、北と東は西茨城郡岩瀬町、南は真壁町、西は協和町に接する。町の中央を南流する桜川を境に東部は筑波山系の山地で、真壁御影と称される花崗岩を産出し、とくに雨引あまびき地区は石材業が盛んである。西部と桜川周辺地域は大国おおくに地区を中心とする田園地帯で、米・野菜などを生産する。筑波鉄道雨引駅周辺が村の中心地である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和村」の意味・わかりやすい解説

大和〔村〕
やまと

鹿児島県南部,奄美大島中部の北西岸にある村。主産業は林業で,パルプ材,枕木,シイタケなどを産する。スモモポンカンなどの果樹栽培も盛ん。南東端の湯湾岳 (694m) は大島の最高峰で眺望がよく,天然保護区域に指定され,特別天然記念物のアマミノクロウサギ,天然記念物のルリカケス,オオトラツグミ,トゲネズミなどの貴重な動物が生息する。東部の国直付近には奄美コーラルビーチがあり,大和浜には穀物貯蔵庫として民俗学上貴重な建物の高倉群である群倉 (ぼれぐら) が保存されている。面積 88.26km2。人口 1364(2020)。

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