加計村(読み)かけむら

日本歴史地名大系 「加計村」の解説

加計村
かけむら

[現在地名]加計町加計・下殿河内しもとのごうち下筒賀しもつつが

下殿河内村を囲むように位置し、本郷ほんごうはその北から東側、飛郷月之子原つきのこばらが西側にある。太田おおた川が本郷の南を西から南へ曲流し、集落は太田川と支流滝山たきやま川・ようろ川の河岸段丘谷底平野および山間台地上に点在する。時期不明であるが明治前期に、飛郷の月之子原・江河内えごうちを下殿河内村に、また高下こうげ穂坪ほつぼ下筒賀村に編入した。

太田川左岸の香草池町かぐさいけまち遺跡や、山崎やまさき山麓はらの谷間から、弥生時代の土器破片や石器が発見され、遅越おそごえの山麓からは古墳時代の鉄剣三振と土器片二〇余の出土をみた。本郷の茶臼ちやうす山、土居の桜尾どいのさくらお山には城跡があり、前者は栗栖弥三郎、後者は栗栖雅楽を城主と伝え、「但何之頃誰為ニ被亡、何方ヘ被移候哉相知不申候」という(国郡志下調書出帳)。天文二三年(一五五四)七月、毛利氏は栗栖氏一族の小坂宮内少輔を指導者とする太田山里一揆と加計の橋際で矢戦の末、一揆勢を敗走させたといわれ(森脇覚書)、これを最後に栗栖一族の支配が終焉しているので、両城も天文期まであったと思われる。その後天正期(一五七三―九二)になると、加計地方は毛利氏の重臣宍戸隆家の支配地となり、その弟元忠が代官として香草の銅徳山どうとくさん城に拠ったといわれる(元和七年「井上三左衛門覚書」上野屋文書)

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳で高一〇二三・七九八石、寛永一五年(一六三八)の山県郡賀計村地詰帳(「加計町史資料」所収)では一二九一・二三八石。天明六年(一七八六)より定免六・四。広島藩蔵入地。村名表記は前記地詰帳に「賀計村」、延宝七年(一六七九)の当村差出帳(同町史資料所収)に「加計村」とみえるが、「国郡志下調書出帳」によると、初め「懸村」と記したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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