日本歴史地名大系 「加計村」の解説
加計村
かけむら
下殿河内村を囲むように位置し、
太田川左岸の亡、何方ヘ被
移候哉相知不
申候」という(国郡志下調書出帳)。天文二三年(一五五四)七月、毛利氏は栗栖氏一族の小坂宮内少輔を指導者とする太田山里一揆と加計の橋際で矢戦の末、一揆勢を敗走させたといわれ(森脇覚書)、これを最後に栗栖一族の支配が終焉しているので、両城も天文期まであったと思われる。その後天正期(一五七三―九二)になると、加計地方は毛利氏の重臣宍戸隆家の支配地となり、その弟元忠が代官として香草の
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳で高一〇二三・七九八石、寛永一五年(一六三八)の山県郡賀計村地詰帳(「加計町史資料」所収)では一二九一・二三八石。天明六年(一七八六)より定免六・四。広島藩蔵入地。村名表記は前記地詰帳に「賀計村」、延宝七年(一六七九)の当村差出帳(同町史資料所収)に「加計村」とみえるが、「国郡志下調書出帳」によると、初め「懸村」と記したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報