勝山城下(読み)かつやまじようか

日本歴史地名大系 「勝山城下」の解説

勝山城下
かつやまじようか

[現在地名]勝山市昭和しようわ町一丁目・もと町一―三丁目・立川たてかわ町一丁目・ほん町一―四丁目・さかえ町一―四丁目・あさひ町一―三丁目・さわ町一―二丁目・芳野よしの町一―二丁目

九頭竜くずりゆう川右岸、通称七里壁しちりかべとよばれる、現大野市勝原かどはらから坂井郡丸岡まるおか町に至る河岸段丘に沿って開けた。福井城下・大野城下、加賀国牛首うしくび(現石川県石川郡白峰村)・同国新保しんぼ(現小松市)などに至る交通の要地。天正八年(一五八〇)柴田勝安が当時の袋田ふくろだ村に築城したことから勝山城下町が興ったと伝えられる。慶長六年(一六〇一)の西町藤田組帳(笹屋文書)に「町方三町」として袋田町こおり町・うしろ町を記しており、この三町が近世勝山町構成の基本となったと思われるが、近世前期の町の実態は不詳。

慶長一一年頃の越前国絵図は勝山町を「北袋」と記しており、正保郷帳は「勝山町」と記し、貞享二年(一六八五)奥山絵図(勝山市教育委員会蔵)には勝山三町の庄屋長百姓の記載があるので、少なくともこの頃までに町の自治体制も確立されていたと思われる。元禄四年(一六九一)小笠原氏の入封によって、新たに城地の南側に町方から没収した二町二反一畝五歩の土地に家中(武家屋敷地)が定められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報