袋田町(読み)ふくろだまち

日本歴史地名大系 「袋田町」の解説

袋田町
ふくろだまち

[現在地名]勝山市ほん町一―四丁目・さかえ町一―四丁目・さわ町一―二丁目・芳野よしの町一―二丁目

勝山城のある段丘に近接し、段丘に並行して南北に延びる。南はこおり町、西はうしろ町に接する。天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「袋田村ヨリ出之」として「鍬壱挺 院領」とみえる。「朝倉始末記」に、天正二年(一五七四)朝倉景鏡が「袋田ノ室屋」に首を切られたとある。室屋は玉木勝左衛門らとともに近世の袋田町の草分で、代々庄屋役を務めたという。天正八年柴田勝安が袋田村に勝山城を築いたことによって、袋田村は城下町として発達した。「袋田町」の称は慶長六年(一六〇一)の西町藤田組帳(笹屋文書)にみえる。元和二年(一六一六)の奉公人請状(室屋文書)には、奉公人の切米を「町桝」をもって定めてほしいという文言が「請人袋田町藤左衛門・惣四郎」の名とともにあり、この頃すでに町としての実体を備えていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報