日本の城がわかる事典 「勝山城」の解説 かつやまじょう【勝山城〈山梨県都留市〉】 山梨県都留市にあった山城(やまじろ)。かつて戦国時代に半独立的な群内領主として武田氏に臣従した小山田氏が居城としていた谷村(やむら)城(谷村館)(同市)の詰城。かつて谷村城があった都留市役所や谷村第一小学校の裏手を流れる桂川の対岸にある城山と呼ばれている独立峰(標高571m、比高約100m)に築かれていた。『甲斐国志』には、浅野長政の家老浅野氏重により1594年(文禄3)に築城されたという記述があるが、近年の研究により、小山田氏時代にもこの城があったことがわかってきた。また、小山田氏時代の谷村城の詰城は北方の岩殿山城(大月市)とされてきたが、今日では谷村城の詰城は勝山城であるとする考え方も定着している。1590年(天正18)の小田原の役で北条氏が滅亡した後、甲斐は加藤氏、浅野氏などの豊臣氏の大名が領有したが、その時代に近世の城郭として整備され、江戸時代には谷村藩の藩庁が置かれた谷村城の属城として存続した。江戸時代の絵図によれば、谷村城と勝山城は二本の内橋によって連結されていた。しかし、江戸時代には詰城としての性格は失われ、勝山城の本郭のあった山頂には、家康を祀る東照宮が建立された。同藩藩主の秋元氏は寛永年間(1624~43年)に茶壺蔵を設置したという記録が残っている。ただし、その遺構は確認されていない。城跡は現在、城山公園として整備されている。富士急行の谷村駅から徒歩約15分(城山公園)。城山の山頂まではミュージアム都留から徒歩約50分。 かつやまじょう【勝山城〈山梨県甲府市〉】 山梨県甲府市(旧東八代郡中道町)の笛吹川左岸の丘(勝山)の上に築かれていた山城(やまじろ)。『甲斐国志』によれば、油川(笛吹市、旧石和町)を拠点としていた武田氏一族の油川氏の居城である。城主の油川信恵(彦八郎)は甲斐国守護武田信縄の弟で、その後信縄から家督を相続した嫡男の信虎(信恵にとっては甥に当たる)と対立し、1508年(永正5)に坊が峰(笛吹市)で信虎と戦い敗死した。また、この城は甲斐と駿河(静岡県)を結ぶ中道往還の要衝に位置していたことから、しばしば甲斐に侵攻した今川軍に占領された。1515年(永正12)に今川氏に一時期占領されていたほか、1521年(大永1)に福島(くしま)正成率いる今川勢が来襲した際にも占領された。武田氏滅亡後、徳川家康と北条氏直との間に起こった天正壬午の乱(武田旧領の甲斐・信濃をめぐる領有争い)では、家康は相模の北条氏に備えて、家臣の服部半蔵に同城の修築を命じており、その後、徳川氏が甲斐を領有した後も、城の再整備が行われている。この城の名は史料にしばしば登場するものの長年位置が特定できずにいたが、1983年(昭和53)に主郭部や土塁、空堀跡などの遺構が発掘されて、その存在が確認された。現在、城跡は桃と桑畑の広がるなだらかな丘陵地帯になっている。JR中央本線甲府駅からバス、中村入口下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報