町年寄(読み)まちどしより

精選版 日本国語大辞典 「町年寄」の意味・読み・例文・類語

まち‐どしより【町年寄】

〘名〙
江戸時代江戸町役人の一つ。樽屋・奈良屋喜多村三家世襲。三年寄ともいう。二百数十人に及ぶ各町の名主を統轄し、町奉行所と連絡を保ちながら市制一般をつかさどったもの。町奉行所の御触れ、指令の伝達、名主以下の町役人の監督、町奉行所の収入に属する諸運上や地代の収納、神田・玉川両上水の管理などに当たった。江戸町年寄
御触書寛保集成‐三九・寛文四年(1664)九月「誰人之屋敷家守誰と有体書付、帳面に作り、町中連判仕、町年寄方え持参可被申候」
② 江戸時代、大坂で総年寄(江戸の町年寄に相当)の指揮のもとに、各町政を担当したもの。初めは元締(のちの総年寄)が任命したが、のち選挙で選ばれた。御触れ・口達の伝達、人別改め、火の元取り締まり、火事場人足の差出、訴訟事件の和解などをつかさどった。
大坂三郷町中御取立承伝記(1620)「町人家屋敷売渡候節は町年寄より惣年寄へ相伺」

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デジタル大辞泉 「町年寄」の意味・読み・例文・類語

まち‐どしより【町年寄】

江戸時代の町役人。江戸では町奉行に属し、奉行所のお触れ・指令の伝達、町内の収税町名主の監督などに当たった。大坂の惣年寄そうどしよりに相当する。

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改訂新版 世界大百科事典 「町年寄」の意味・わかりやすい解説

町年寄 (まちどしより)

近世の城下町や商業都市で町を支配する役人。とくに総町を支配する役人の名称として,江戸,甲府,福井,長崎などの都市で用いられた。ただし,大坂,堺などでは総年寄といい,ほかに町大年寄,総町年寄頭など,呼び方は場所により多様であった。

 江戸の町年寄は,はじめ〈江戸宿の年寄〉と呼ばれていたようである。奈良屋,樽屋,喜多村の3家があり,それぞれ日本橋本町一丁目,二丁目,三丁目の角屋敷を拝領していた。はじめは町中の支配だけではなく,街道の整備なども行っていた。町年寄の役所には各町々の月行事(がちぎようじ)が交代で勤務していた。しかし業務が多忙になるにつれて,町々が〈晦日銭(みそかぜに)〉を納入し,手代を雇用する費用にあてたという。1654年(承応3)以降は玉川上水の管理業務も町年寄の仕事であったが,93年(元禄6)に道奉行へ移管された。町年寄の通常業務としては,(1)触(ふれ)の町名主への伝達,新地の地割り・受渡し,人別の集計など町政一般の業務,(2)商人仲間の名簿保管や異動確認など,市中の商人や職人の統制に関する業務,(3)町奉行の諮問に対する調査や答申,町人からの願書に関連する調査,町人間の紛争調停など,多様な調査・調停事務の三つがあげられる。

 町年寄は他の特権町人とともに町人のなかでの最上位の存在で,初期には帯刀や熨斗目(のしめ)の着用が許されていた。しかし1663年(寛文3)に帯刀が禁止され,のち1790年(寛政2)に樽屋与左衛門が奈良屋とともに札差仕法改正に従事し,猿屋町会所勤務中の帯刀が許された。ついで1824年(文政7)に三年寄とも一代限りの帯刀が許されている。苗字については,喜多村は苗字であったが,樽屋は1790年に樽と称することが認められ,奈良屋は1834年(天保5)に館の姓が許可となった。なお熨斗目白帷子(しろかたびら)の着用は1784年(天明4)に許可されている。町年寄は例年正月3日に,全国の由緒ある町人の筆頭として江戸城で年頭の拝謁を許された。また将軍の上野,増上寺への御成先(おなりさき)での拝謁,代替りの拝謁も許されていた。

 町年寄の主要な収入は,拝領屋敷を貸与して得た地代収入で,上述の拝領屋敷のほか,市中の各所に拝領屋敷が与えられている。1869年(明治2)の記録によれば,3家それぞれ約600両ほどの手取額があった。このほか樽屋の場合には東国の枡座を兼ねていた。しかしこれらの拝領地も火災などによる収入減もあり,おりにふれて拝領・拝借米金を願い出ている。1868年5月,江戸城内に維新政府の鎮台府が設置され,町奉行所の業務が市政裁判所に移された。町年寄3人および町年寄並勤方の地割役は鎮台府付となり,8月の東京府開庁によって9月15日付で職制は廃止された。また町名主廃止後に町年寄が設けられたが,これは江戸の町年寄とは異なる職制である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「町年寄」の意味・わかりやすい解説

町年寄
まちどしより

江戸時代の町役人の呼称の一つ。村方における名主庄屋に相当する。江戸では,江戸町年寄と呼ばれ,町奉行の下,町名主の上にあり,その地位は重く樽屋,奈良屋,喜多村の3家が世襲した。大坂の町年寄は江戸の町名主に相当し,江戸町年寄に相当する惣年寄の指揮下にあった。その職務は,町奉行の御触・指令の伝達,人別改,消防,衛生,風紀,交通など町政全般にわたり自治的性格が強かった。初めは任命制であったが,のち毎町1人の割で町人のなかから選挙された。江戸,大坂以外の諸都市にも町年寄もしくはこれに相当するものがおかれたが,職務,名称はそれぞれ地方によって異なっていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「町年寄」の意味・わかりやすい解説

町年寄
まちどしより

町奉行(まちぶぎょう)のもとで江戸の町を支配した役人。奈良屋、樽(たる)屋、喜多村(きたむら)の三家が世襲した。大坂ではこれにあたるものを総年寄と称した。大坂で町年寄というのは、江戸の町名主にほぼ相当する。

[編集部]

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旺文社日本史事典 三訂版 「町年寄」の解説

町年寄
まちどしより

江戸時代の町役人
①江戸の市政をつかさどった役職
②大坂の市政をつかさどった役職
町奉行支配下に奈良屋・樽屋・喜多村の3家が世襲。名主 (なぬし) 以下を支配し,法令の伝達,町名主の進退,株仲間の願・届の受理,諸税の収納などにあたった。また拝領地の地代収入などいろいろな特権が与えられた。
惣年寄の下で市政一切を処理した。町人の選挙で決められ,ほとんど無給の名誉職で,江戸の町名主にあたる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「町年寄」の解説

町年寄
ちょうどしより

近世都市の個々の町におかれた役人。「まちどしより」と読む場合は,町方全体を統轄する惣年寄をいう。京都では,個々の町ごとに町年寄1人ずつがおり,町の事務を行うとともに町を代表した。世襲ではなく,任期は3年から数カ月と短く,町の本来の構成員である家持町人が交代で勤めた。交代の際には町奉行所と組合町の町代に届け出,就任披露の儀礼行為も行われた。大坂の個別町の役人も町年寄といった。

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百科事典マイペディア 「町年寄」の意味・わかりやすい解説

町年寄【まちどしより】

町役人

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世界大百科事典(旧版)内の町年寄の言及

【年寄】より

…室町幕府や江戸幕府,大名家では重臣を年寄,家老老中と称している。また室町時代,江戸時代を通じて宮座,商工業の座,株仲間の重役も年寄と称されており,江戸時代の村落でも庄屋や名主(なぬし)を補佐する役人を村年寄といい,都市の行政単位である町内の行政を担当し,支配機構の末端をになう役人を町(ちよう)年寄と称した。宮座の年寄も老人,宿老と同義語で,若衆,中老などの年齢階梯を通過したものが,最終の年齢集団の年寄衆(老人)に入り,加入順に一老(いちろう)(一﨟(いちろう),一和尉(いちわじよう),一和尚(いちわじよう)),二老,三老などと称され,一老を勤仕したあと年寄から引退する。…

【町名主】より

…農村を支配する名主と区別して町名主と呼んだ。職名も都市により相違があり,大坂では町年寄,岡山では名主年寄,仙台では検断・肝煎(きもいり),若松では検断,名古屋・犬山・長岡では町代,姫路では年寄,金沢では肝入,岡崎・飯田では庄屋,駿府では丁頭など多様な名称が用いられている。 1590年(天正18)徳川家康が江戸に入ったとき,町の支配役としては(1)入国以前から江戸にいた者から取り立てられた者がおり,さらに(2)家康入国後命ぜられた者,(3)江戸で町屋が建設されるさいに町役頭ないし名主と呼ばれた者がいた。…

【町役人】より

…町役人の身分は町人であるが,その管轄範囲や事務の内容によって区別された。まず町全体(総町)を支配する町役人として,江戸の町年寄,大坂の総年寄のような役職がある。彼らは町の筆頭町人として,町奉行のもとで触の伝達をはじめ多様な総町の行政事務に従事し,同時に町の運営に関する各種の諮問・答申も行っている。…

※「町年寄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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