日本歴史地名大系 「勝弦新田村」の解説
勝弦新田村
かつつるしんでんむら
[現在地名]塩尻市北小野 勝弦
寛文四年(一六六四)諏訪領九ヵ村と塩尻一一ヵ村とが、塩尻峠の入会地境をめぐって争論となり、翌年九月次の裁許状(川上家文書)が出された。
<資料は省略されています>
そして、以後入会地の新開・新林を禁止され、勝弦もその中に含まれた。
「塩尻地史」によると、その後明和元年(一七六四)幕府勘定奉行石谷備後守の中山道巡見の折、峠まで単身道案内として迎えた塩尻町の儀左衛門が、原野新開の状況下問を契機に新開を願い出たところ、絵図に認め筋を通して上申すべしとの言質を得た。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報