日本歴史地名大系 「塩尻市」の解説 塩尻市しおじりし 面積:一七二・六六平方キロ県の中央部に位置し、松本市の南に隣接する。西は日本アルプス、東は東(ひがし)山(一四三〇メートル)・高(たか)ボッチ高原(一六六五メートル)、南は木曾山脈北端の山々と三方を山に囲まれ、中央部の標高七三〇メートルの桔梗(ききよう)ヶ原(はら)高原に市街地や工場地帯が展開している。当市は合併前の塩尻町を中心として南に宗賀(そうが)地区・筑摩地(ちくまち)地区、北に片丘(かたおか)地区・広丘(ひろおか)地区、西に洗馬(せば)地区があり、南東方より北西方に向かって緩やかな傾斜地をなしている。三方の山々は豊富な山林地帯を形成している。東は塩尻峠を経て岡谷市に、南は善知鳥(うとう)峠を経て伊那、鳥居(とりい)峠から木曾に通じ、西は東筑摩郡朝日(あさひ)村、北は平地続きに松本市に接する。国鉄中央東線・西線及び篠ノ井線の分岐点にあり、国道一九号・二〇号の分岐点でもあり、交通の要地である。奈良井(ならい)川は木曾方面から市の西部を、田(た)川は塩尻峠方面から市の東部を北流する。塩尻の名は建久二年(一一九一)二月の「可早弁済諏方下宮神領塩尻西条所当物事」(諏訪大社下社文書)を初見とする。当時既に塩尻郷は田川を境に東条(ひがしじよう)と西条(にしじよう)に分れていた。〔原始〕縄文時代の遺跡や遺物は東の筑摩山脈の麓の、北熊井(きたくまい)・南内田(みなみうちだ)、南の上西条・北小野(きたおの)・勝弦(かつつる)、西の山麓の洗馬(せば)地区に多く、早期・前期のものもあり、特に中期のものが多い。弥生時代のものは田川流域の黒崖(くろがけ)・大門(だいもん)などの平坦地に多く、大門の柴宮(しばみや)からは銅鐸が出土している。古墳時代のものは弥生式と複合している遺跡が多い。平出(ひらいで)遺跡は代表的遺跡として名高い。〔古代〕「和名抄」記載の筑摩郡六郷のうち良田(よしだ)・崇賀(そが)の二郷はほぼ現塩尻市域に含まれると推定される。良田郷は現在の広丘の吉田を中心として南へ広がり、崇賀郷は旧宗賀村から木曾谷の入口の楢川(ならかわ)村であろう。「続日本紀」の大宝二年(七〇二)一二月条と和銅六年(七一三)七月条に開通の記事のみえる吉蘇路(きそじ)は崇賀郷を通過したであろうし、東山道が伊那から筑摩郡へ至る道のいわゆる延喜の官道の頃は良田郷の北端の辺りに覚志(かがし)駅ができた。「万葉集」巻一四「東歌」の中の<資料は省略されています>の須賀の荒野は、崇賀郷から良田郷にかけてのいわゆる筑摩野を比定する見方が強い。 塩尻市しおじりし 2005年4月1日:塩尻市が木曾郡楢川村を編入⇒【楢川村】長野県:木曾郡⇒【塩尻市】長野県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩尻市」の意味・わかりやすい解説 塩尻〔市〕しおじり 長野県中部,松本盆地南端と木曾谷の北端を占める市。 1959年塩尻町,片丘村,広丘村,宗賀村,筑摩地村が合体して市制。 1961年洗馬 (せば) 村,2005年楢川村を編入。北東部は諏訪盆地との境にある塩尻峠に向けてゆるい傾斜をもつ山地で,北西部は桔梗ヶ原と呼ばれる台地である。南西部の木祖村との境には木曾川と奈良井川の分水界をなす鳥居峠がある。松本盆地,諏訪盆地,伊那盆地,木曾谷を結ぶ交通の要地にあり,塩尻は江戸時代に中山道の塩尻峠を控えた宿場町として発展。なかでも奈良井宿は中山道の木曾谷 11宿で最もにぎわいをみせた。鉄道の開通後も交通の要地で,JR中央本線と篠ノ井線が塩尻で分岐し,駅前に中心市街地大門が形成された。諏訪湖周辺からの精密機械工業の進出が多い。南部の平沢と奈良井は漆器生産で知られる。中北部の洗馬は中山道と北国西街道の分岐点で,北東部には三州街道の善知鳥 (うとう) 峠がある。桔梗ヶ原を中心に果樹栽培が行なわれ,ワイン工場がある。市街地南部の平出遺跡 (国指定史跡) からは縄文中期から平安時代の住居跡が出土している。一部は八ヶ岳中信高原国定公園,塩嶺王城県立自然公園,中央アルプス県立自然公園に属する。国道 19号線,20号線,153号線が通じ,長野自動車道のインターチェンジがある。面積 289.98km2(境界未定)。人口 6万7241(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by