勧修寺村
かんじゆじむら
[現在地名]山科区勧修寺〈閑林寺・北大日・御所ノ内・小松原町・柴山・下ノ茶屋町・瀬戸河原・泉玉・堂田・縄手町・仁王堂町・西金ヶ崎・西北出町・西栗栖野町・冷尻・東金ヶ崎・東北出町・東栗栖野町・東出町・平田・福岡町・風呂尻町・本堂山町・丸山町・南大日・南谷町〉
北は西野山・栗栖野新田・椥辻、東は小野・醍醐(現伏見区)、南は北小栗栖(現伏見区)、西は大日山で深草(現伏見区)の各村と接する。山科盆地の南に位置し西部は山地、東部は平地で、平地部のほぼ中央に勧修寺がある。平安時代初期の宇治郡司宮道弥益の居宅を寺院としたといわれるが、孫藤原胤子が醍醐天皇生母となったため宮道氏はその外家となりこの地も重視された。醍醐寺も隣接の地に営まれている。宮道氏居宅跡といわれる勧修寺の四至は勧修寺文書に「勧修寺 四至東限小野中路口 南限鉢伏谷川西限猪鼻 北限黒石」とある(永暦元年九月九日太政官牒案)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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