宇治(読み)ウジ

デジタル大辞泉 「宇治」の意味・読み・例文・類語

うじ【宇治】[地名]

京都府南部の市。宇治川が流れ、奈良と結ぶ渡河地として早くから開けた。平安時代から貴族の別荘地で、源氏物語の舞台。宇治茶の産地。平等院黄檗山おうばくさん万福寺などがある。古くは「菟道」とも書いた。人口19.0万(2010)。[歌枕]
「暮れて行く春のみなとは知らねども霞におつる―の柴舟」〈新古今・春下〉
宇治茶」の略。

うじ【宇治】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「宇治」姓の人物
宇治加賀掾うじかがのじょう
宇治嘉太夫うじかだゆう

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精選版 日本国語大辞典 「宇治」の意味・読み・例文・類語

うじうぢ【宇治】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 京都府南部の地名。宇治川の扇状地に発達。古来、大和、近江間の交通の要地で、特に初瀬詣での中継点として風光明媚を誇り、網代(あじろ)、霧などの特徴的な景物が和歌によく詠まれた。平安時代から貴族の別荘地として知られ、平安中期以降の末法思想の普及によって藤原頼通(よりみち)が別荘を平等院に建て替えたことは有名。「源氏物語」の舞台にもなり、また、宇治茶の産地としても知られる。平等院、万福寺、興聖寺などがある。歌枕。昭和二六年(一九五一)市制。
      1. [初出の実例]「さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらん宇治の橋姫 又はうぢのたまひめ〈よみ人しらず〉」(出典:古今和歌集(905‐914)恋四・六八九)
    2. [ 二 ] 京都府の南東部にあった郡。古くは「うち」とも。旧郡域は京都・宇治の両市に編入され、昭和二六年(一九五一)消滅。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. うじちゃ(宇治茶)」の略。また、おもに花柳界で茶のことをいう。〔模範新語通語大辞典(1919)〕
      1. [初出の実例]「こんなうまいウジ(茶)を日本では未だかつて飲んだことがないと思った」(出典:いやな感じ(1960‐63)〈高見順〉四)
    2. うじまる(宇治丸)」の略。
      1. [初出の実例]「三の膳 金の桶、宇治、梅つけに」(出典:松屋会記‐久政茶会記・永祿六年(1563)正月一一日)

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百科事典マイペディア 「宇治」の意味・わかりやすい解説

宇治【うじ】

(1)山城国宇治郡および久世(くせ)郡の地名(古代の郷名)で,京都府宇治市の市名に継承されている。両郡堺に宇治川が流れ,右岸に宇治郡宇治郷,左岸に久世郡宇治郷があり,古くには合わせて〈宇治里〉とも呼ばれた。宇遅(《古事記》),菟道(《日本書紀》),兎道・氏・是(《万葉集》),宇治(《播磨国風土記》)などと記されたが,平安時代前期以降はほぼ宇治が用いられるようになった。宇治は奈良時代の北陸道(のちの奈良街道)の渡河点であり,7世紀半ばには日本で最初の宇治橋が架けられ,以後宇治橋とその付近にあった宇治津を核に水陸交通の結節点として発展。平安遷都後は風光明媚であることから皇族,貴族の遊覧の地となり,離宮,別業(なりどころ)や仏堂が営まれた。その一つが平等院である。すでに《万葉集》に宇治川や宇治渡(うじのわたり)が詠まれているが,《古今和歌集》以後は宇治山,宇治橋,宇治の網代(あじろ)などが加わり,また詞書に〈宇治にて〉と記す歌が盛んに詠まれ,歌枕となった。また散文でも《源氏物語》が〈宇治十帖〉の舞台としたのをはじめ,《蜻蛉(かげろう)日記》《更級(さらしな)日記》などの日記類が大和の初瀬詣(はせもうで)の道中に記している。1180年平氏打倒の兵を挙げた以仁(もちひと)王源頼政らは宇治橋での合戦で敗死するが,以後中世を通じて宇治の地はたびたび戦乱の舞台となり(宇治川の戦),山城国一揆の際には平等院は国人の集会(しゅうえ)の場となった。現在も宇治の主要産業である宇治茶の植栽は13世紀に開始されたと伝え,14世紀中ごろには著名な産出品となっていた。宇治郷には足利義満が開かせたという7ヵ所の名茶園があり,宇治七名園と称された。江戸時代の宇治郷はこの七名園での生産を中心として在郷町的性格を強く保ち,宇治代官上林(かんばやし)氏が居住し,幕府・諸大名と取引をする宇治茶師数十家が宇治茶師三仲ヶ間を結成していた。宇治郡に属していた地域は江戸時代初期には乙方(おちかた)村と呼ばれたが,中期までには久世郡宇治郷に併合された。宇治郷は1889年宇治町となり,1951年宇治市成立の核となった。(2)三重県(伊勢国)の地名。現在の伊勢市中心部にあり,伊勢神宮の内宮の鳥居前を宇治,外宮(げぐう)の鳥居前を山田と呼んだ。中世から門前町鳥居前町)としての性格が強く,自治組織として宇治会合(えごう)が形成された。室町時代には山田との争いがたびたび発生し,1486年宇治側が北畠氏の兵を頼んで山田に攻め入り外宮が炎上,1489年には山田側が宇治を焼き払っている。江戸時代は幕府管轄下におかれ,山田奉行が支配。1788年の戸数約1000。1889年宇治と山田が合併して宇治山田町,1906年宇治山田市となり,その後の町村合併を経て1955年伊勢市と改称。→会合衆
→関連項目忍熊皇子山田

宇治[市]【うじ】

京都府南部,京都市の南に接する市。1951年市制。宇治川が流れ,宇治橋で結ばれる両岸は奈良時代から北陸道(のちの奈良街道)の渡津集落として発達。室町時代に始まり,江戸幕府の保護下で発展した宇治茶栽培の中心地,茶園の面積は宅地化が進み,年々減少しているが,現在も高級茶に特色がある。化繊・車両・機械工業も行われる。平等院(世界遺産),宇治上(うじかみ)神社(世界遺産),宇治神社,県(あがた)神社,三室戸(みむろど)寺,橋寺放生(はしでらほうじょう)院,興聖(こうしょう)寺,万福寺宇治陵などがある。奈良線,京阪宇治線,近鉄京都線,京都市営地下鉄東西線が通じ,宅地開発も進み,京都,大阪の衛星都市的性格が強い。67.54km2。18万9609人(2010)。→宇治木幡栗隈
→関連項目藤原忠実

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇治」の意味・わかりやすい解説

宇治(市)
うじ

京都府南部、京都市の南東に接する市。宇治川が京都盆地に流出する谷口に位置する。1951年(昭和26)宇治町、東宇治町を中心に、槇島(まきしま)、小倉(おぐら)、大久保の3村が合併して市制施行。琵琶(びわ)湖に発する宇治川は市域の中央を流れ、市の北東部は標高300メートル前後の山地が占め、山麓(さんろく)には洪積台地が広がり、西半部は旧巨椋(おぐら)池の干拓地を含む低平な京都盆地床である。JR奈良線、京阪電鉄宇治線、近畿日本鉄道京都線、京都市営地下鉄東西線、国道24号、京滋バイパスが通ずる。奈良と京都を結ぶ交通路の宇治川渡河地点として早くから開け、古代の菟道(うじ)、『和名抄(わみょうしょう)』の宇治郷にあたり、架橋の由来を記した宇治橋造橋断碑(宇治橋断碑、国の重要文化財)が橋畔の橋寺(はしでら)(放生院(ほうじょういん))にある。平安時代には関白道長(みちなが)をはじめとする藤原一門の別荘が営まれた。平等院(びょうどういん)も、道長の別院をその子頼通(よりみち)が仏堂とし、平等院と名づけたものである。鎌倉時代の喫茶の発達に伴って700年の伝統を有する宇治茶は、おもに排水の良好な洪積台地に栽培され、茶園には直射日光を防ぐために覆いをかけている。2006年(平成18)の生産量は55.7トンであり、全国的にみるとそれほど多くはなく、しかも宅地の増加によって茶園は減少しつつあるが、玉露や挽茶(ひきちゃ)(抹茶(まっちゃ))の高級品の産地として質を重んじ続け名声を維持している。また江戸時代は34軒の「茶師」によって統轄され、今日でも茶問屋は宇治市に集まっている。そのほか野菜の栽培も盛んである。近代工業としては、良質で豊富な宇治川の水を利用して1926年(大正15)に日本レイヨンの工場が設けられた。現在のユニチカ宇治工場であり、松下電器(現、パナソニック)なども進出し、1964年(昭和39)には宇治川の天ヶ瀬(あまがせ)ダムも竣工(しゅんこう)し、産業都市としての発展もみられる。

 1052年(永承7)に創建された平等院は今日、鳳凰(ほうおう)堂とよばれる阿弥陀(あみだ)堂(国宝)を残すのみだが、堂内に定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来(にょらい)坐像(国宝)をはじめ、壁画、扉画などに平安時代の浄土教美術の粋(すい)を尽くしている。宇治川右岸の五ケ庄(ごかしょう)には隠元(いんげん)禅師が開創した黄檗(おうばく)宗万福寺、菟道(とどう)には菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の陵墓と伝える前方後円墳と西国三十三所第10番札所の三室戸(みむろと)寺、宇治橋上流には清雅な曹洞(そうとう)宗の興聖(こうしょう)寺がある。宇治川左岸の白川(しらかわ)には平安時代の仏像を多く蔵する地蔵院や白山神社がある。そのほか平等院の近くには6月5日の奇祭で知られる県(あがた)神社や、平安時代の神社建築の様式をとどめる宇治上(うじがみ)神社(本殿と拝殿は国宝)などがある。平等院と宇治上神社は1994年(平成6)世界遺産の文化遺産として登録された。面積67.54平方キロメートル、人口17万9630(2020)。

織田武雄

『『宇治市史』全6巻(1973~1981・宇治市)』


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日本歴史地名大系 「宇治」の解説

宇治
うじ

和歌山城北側の武家屋敷地の地域名称。町人町の中心をなす内町うちまち地区の裏側に位置し、大手おおて御門・きよう橋より北に延びる本町ほんまち通の東裏一帯を東宇治ひがしうじ、西北裏一帯を西宇治とよぶ。宇治の地名は、江戸時代以前は内町の地域を含む付近一帯の総称で、中世末期には雑賀さいか庄の経済的中心であり、鷺森さぎのもり御坊がこの地に移転して以後は宗教的中心ともなった。

慶長五年(一六〇〇)浅野氏が入部し、城下町の大整備で城下に編入され、大手口防衛のために武家屋敷や寺院を配し、町人町と鷺森御坊門前町を内町として分離した。元和五年(一六一九)徳川氏入部以降はさらに武家屋敷が増え、寺町を吹上ふきあげ地区に移して全域が武家地となった。しかし武家屋敷の間や紀ノ川堤防付近には田畑もあったらしく、それらは宇治領として中規模村並の高付がされている。

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改訂新版 世界大百科事典 「宇治」の意味・わかりやすい解説

宇治[市] (うじ)

京都府南部の市。1951年宇治町ほか1町3村が合体して市制。人口18万9609(2010)。市域は京都盆地東部の沖積低地,洪積台地とその東方の古生層の山地から成り,巨椋池(おぐらいけ)干拓地の一部を含む。中心市街の宇治は宇治川が京都盆地へ流れ出る谷口に位置する。景勝地で京都に近いため平安京貴族の別荘地となった。鎌倉末期に始まる宇治茶は,中近世を通じ貴族や武士の保護を受けて発展。幕末維新期に一時衰退したが,その後茶貿易への積極的参加,生産過程の近代化などによって活路を見いだした。現在も碾茶(てんちや),玉露のような高級茶に特色があるが,市制施行以後住宅地化が進み,市域内の茶園は減少している。輸送用機器,化学,電気機器などの近代工業も発達。国道24号線,JR奈良線,京阪宇治線,近鉄京都線が通ずる。平等院をはじめ黄檗山(おうばくさん)万福寺,三室戸(みむろど)寺,放生(ほうじよう)院など古社寺が多く,宇治川の天ヶ瀬ダムとともに観光客が多い。県(あがた)神社の県祭は暗夜の奇祭として知られる。
執筆者:

歴史地名としては宇遅,菟道などとも書く。応神天皇の皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が住んでいたところから生まれた地名という。古代政権の所在地である大和国から日本海側に向かういわゆる古北陸道(長岡・平安京以前の北陸道)が貫通して宇治川を渡河しており,交通の要衝であった。646年(大化2)に早くも僧道登による宇治橋架橋(宇治橋碑)が行われたのはそのためである。律令制下では山科盆地から宇治川左岸までの広い地域が宇治郡という行政区画になったが,ふつうに宇治といえば宇治橋周辺の地を称した。平安時代には京都の近郊として史上にしばしば見えており,とくに藤原頼通が父道長の別荘を寺として平等院と称したことは著名。軍事的にも重要な地であり,源平合戦,承久の乱などで争奪の対象となった(宇治川の戦)。
執筆者: 近世には茶業中心の在郷町となり,北流する宇治川の両岸に発展した谷口集落で,宇治郷とよぶ。右岸は宇治郡,左岸は久世郡に分かれるが,左岸の発展が著しく,久世郡宇治郷と一括されることが多い。豊臣秀吉が小倉堤(太閤堤)を築いて宇治を経由しない新大和街道を開き,槙島堤(宇治堤)によって宇治川を伏見城下に引き入れると,水陸交通の要衝は伏見に移った。徳川政権は宇治の茶業を保護し,1636年(寛永13)には屋地子の免除と年貢半減を令した。郷高は3698石余で,茶師頭取の上林家が江戸前半期には代官職を世襲した。町勢は,18世紀初頭の町数33,家数約1000,人数約5000が,19世紀初めには町数26,家数約500,人数約2000と衰退した。これは1698年(元禄11)の大火や1756年(宝暦6)の大水害など災害の影響もあるが,何よりも茶業の不振と宇治茶師の経済的破綻が主な要因であった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇治」の意味・わかりやすい解説

宇治
うじ

京都府宇治市の中心市街地。『倭名類聚抄』の久世郡宇治郷にあたる。菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮があったと伝えられ,古代より木津として宇治川を利用した木材運送の中継地であった。また,渡しとして奈良と京都を結ぶ交通の要地であった。大化2(646)年にはすでに宇治川に橋がかけられ,12世紀以後は佐々木高綱の宇治川先陣で名高い源平合戦(→宇治川の戦い)など,たびたび戦場となった。中世以降,宇治茶の産地として有名。藤原道長の別業であり,のちに藤原頼通が仏寺とした平等院や,黄檗宗大本山の萬福寺がある。

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世界大百科事典(旧版)内の宇治の言及

【山田】より

…伊勢神宮外宮鎮座地,またその鳥居前町。現在,内宮の鳥居前町宇治とともに三重県伊勢市の中心部。《止由気(とゆけ)宮儀式帳》《延喜式》は外宮の所在地を度会(わたらい)郡沼木(ぬき)郷山田原(やまだのはら)とし,12世紀には山田村,あるいは山田郷としても現れる。…

【納涼】より

…また氷室(ひむろ)に貯蔵しておいた氷を,立夏の日に氷室開きをして,盛夏に用いることも一つの納涼であったろうが,これは限られた上流階級のことである。王朝時代の避暑地では宇治が有名であり,緑陰と川とに恵まれていたからであろう。宇治大納言源隆国が,この地の南泉坊に避暑して,道行く人から諸国話を聞いて《宇治拾遺物語》を作ったという話は,伝説であるがおもしろい。…

※「宇治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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