匝瑳郡(読み)そうさぐん

日本歴史地名大系 「匝瑳郡」の解説

匝瑳郡
そうさぐん

面積:五四・三四平方キロ
ひかり町・野栄のさか

九十九里浜に面し、西境を栗山くりやま川が南東流し九十九里浜に注ぐ。北は八日市場市、北西は香取郡多古たこ町、南西は山武さんぶ横芝よこしば町に接する。古代以来の郡で、近世までは東から北にかけては海上うなかみ郡、北西は香取郡、南西は上総国武射むしや郡と接していた。郡名は瑳・匝瑳の表記がみられる。「延喜式」民部省ではサフサ、「和名抄」名博本ではサウサと訓ずる。天文一〇年(一五四一)九月六日の下総十一郡之次第(香取文書)ではサツサと訓じている。江戸時代の郡域は現在の匝瑳郡二町と八日市場市・旭市に及ぶにとどまるが、古代から中世までの郡域は現香取郡多古町・栗源くりもと町にわたる広域な地域であった。

〔古代〕

平城宮跡出土木簡に「□総国匝瑳□」とみえるのが郡名の早い例であるが、当郡の創置は物部小事大連が坂東を征した勲功により、匝瑳郡を建て本貫としたのが始まりと伝え、その郡名を氏名にしたという(「続日本後紀」承和二年三月一六日条)。弘仁三年(八一二)物部小事の子孫である外従五位上物部蹉連足継は鎮守府将軍に任じられ(「日本後紀」同年二月一〇日条)、承和元年(八三四)には主殿允正六位上物部匝瑳連熊猪が外従五位下に昇り、同じく鎮守府将軍に任じられている(「続日本後紀」同年五月一九日条)。この時まで匝瑳郡を本貫地としていたが、同二年宿禰の姓を与えられるとともに左京二条に本貫地を移している(同書前掲同年三月一六日条)。天平一三年(七四一)一〇月瑳郡磐室いわむろ(石室郷)の大伴部足輸が調庸の白布一端を貢納しており(「白布」正倉院宝物銘文集成)、緋櫃綱布心(同集成)の銘文には中村なかむら郷と読み得る郡内の郷がある。「和名抄」によれば、郡内にはほかに野田のだ長尾ながお辛川あしかわ千俣ちまた山上やまのべ幡間はたま・匝瑳・須加すか大田おおた日部くさかべ玉作たまつくり田部たべ珠浦たまうらはら栗原くりはら茨城いばらきの計一八郷があり、「養老令」戸令定郡条によれば大郡に相当する。「延喜式」神名帳に匝瑳郡小一座として「老尾オイヲノ神社」が記載されており、現八日市場市の同名社に比定される。物部匝瑳宿禰がその祖神を祀ったと考えられている。現八日市場市大寺おおでらには古代寺院跡とされる地があり、関連の御堂跡では掘立柱建物跡が検出されている。なお現光町台駒形だいこまがた遺跡より「()瑳郡」と記す九世紀代の墨書土器、八日市場市平木ひらぎ遺跡からは「郡厨」墨書土器が出土しており、官衙に関する遺跡と推定されている。

〔中世〕

平安時代末期匝瑳郡が分割・再編されて、郡域内には匝瑳南条そうさなんじよう匝瑳北条そうさほうじよう千田ちだ庄・玉造たまつくり庄などが分立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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