八日市場村(読み)ようかいちばむら

日本歴史地名大系 「八日市場村」の解説

八日市場村
ようかいちばむら

[現在地名]八日市場市イ・若潮町わかしおちよう

現八日市場市の中心部に位置し、集落は多古銚子たこちようし道沿いに発展した。東は富谷とみや村、南は横須賀よこすか村、西は米倉よなぐら村、北は中台なかだい村・生尾おいお村。北西下総台地南東には水田が広がる。

〔中世〕

中世匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられる。応永二四年(一四一七)八月の日英末寺等支配注文(法宣院文書)に「八日市場講今は退転」とみえ、日英は弟子の千代寿・寅菊両名に末寺講演職等を譲与している。建長七年(一二五五)二月六日の観経定善義聞書(金沢文庫蔵)の識語に「下総国匝(ママ)飯塚御庄内松崎郷福岡村」、同年五月一七日の観経玄義分聞書(同文庫蔵)の識語に「下総国瑳匝(ママ)御庄福岡郷」とみえる福岡ふくおか村・福岡郷はのちの八日市場村とみられ、当地には字福岡が残る。両聞書とも当地における然阿良忠の講説を、講席に侍した弟子良聖が筆録したもの。この講説の場所はのちの見徳けんとく寺とみられ、文安二年(一四四五)五月一日の印信(福島県薬王寺文書)には「見徳寺道場」とあり、鏡照が弟子の鏡祐に瑜祇灌頂印信を伝授している。また享徳元年(一四五二)一一月四日の印信(西光寺文書)には「匝瑳庄福岡村見徳寺道場」とあり、長蔵が鏡照に金剛・胎蔵両部の伝法灌頂を行っている。さらに長禄三年(一四五九)一〇月七日の伝法灌頂印信写(西光寺文書)には「匝ママ南条庄福岡村珠玉山見徳寺道場」とあり、鏡照が照鏡に伝法灌頂印信を授与している。


八日市場村
ようかいちばむら

[現在地名]中富町八日市場

切石きりいし村の南一八町にあり、西は中山なかやま村、北西は夜子沢よごさわ村。「甲斐国志」に「古時日ヲ定メテ市ヲ開キシ処ナリ」という伝承が記され、これが村名の由来になったものと考えられる。小名に於子山おごやま(大子山)後山うしろやまがあり(同書)、明治四年(一八七一)作成と推測される村絵図(中富町誌)には大子・竹ノ花・町屋・中平・宮ノ前・滝脇・大明神原の字名がみえる。天正八年(一五八〇)閏三月二四日の穴山信君判物写(寺記)に「八日市場」とみえ、地内榑坪分高辻九貫三〇〇文などの地を穂坂常陸介がその死後に久遠くおん寺内の君吉跡に立てた新地に寄付することが安堵されている。同一八年八月二三日の羽柴秀勝印判状(久遠寺文書)では、穴山梅雪が久遠寺に寄進した当地一〇貫文が安堵されている。同二〇年二月一四日の加藤光政判物(同文書)によると、当地と「土之島」に検地が実施され、そのうえで久遠寺領と交換されている。市場としての実態を示す史料はない。

慶長古高帳では高一二七石余、幕府領、ほかに大聖だいしよう寺領五石がある。寛文一一年(一六七一)検地帳(県立図書館蔵)によれば高三〇五石余、反別田二町五反余・畑七九町九反余・屋敷八反余、屋敷数八三。


八日市場村
ようかいちばむら

[現在地名]小見川町八日市場

野田のだ村の北に位置し、東に利根川の遊水池八丁面はつちようめんが広がる。銚子道が通る。本郷ほんごう村の枝郷。寛文四年(一六六四)の内田正衆領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三四〇石で同藩領。享保九年(一七二四)小見川藩領となる。宝暦一三年(一七六三)の取米一〇四石余で小物成永八二五文、家数八〇・人数三〇八(高野家文書)。天保九年(一八三八)の小見川藩領郷村高辻帳(関家文書)でも同藩領であるが、弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では幕府領一〇石余(無民家)と旗本深谷領三六七石余となっており、家数五四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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