千葉県北東部にある市。2006年(平成18)、八日市場市(ようかいちばし)、匝瑳郡野栄町(のさかまち)が合併して成立。市名は匝瑳郡の郡名による。北東は旭(あさひ)市、北は香取(かとり)市、北西は香取郡多古(たこ)町、南西は山武(さんぶ)郡横芝光(よこしばひかり)町に接し、南東は太平洋に臨む。市域は南東部の九十九里浜の海岸砂浜とそれに続く九十九里平野、下総台地からなる。中央部をJR総武(そうぶ)本線と国道126号が走り、126号からは船橋(ふなばし)市に向かう296号が分岐する。縄文時代の貝塚が多くみられ、丸木舟が出土した遺跡も多い。台地上では5~7世紀に古墳が築造された。中世にかけて、市域は匝瑳南条荘、同北条荘、千田(ちだ)荘などに属し、房総平氏の上総氏系の匝瑳氏、下総国司を歴任した為光流藤原氏が勢力を伸ばしていた。鎌倉時代以降には千葉氏と一族の椎名(しいな)氏、鏑木(かぶらき)氏、押田(おしだ)氏、飯高(いいだか)氏などが蟠踞。八日市場は交通の要衝で、16世紀後半には定期市が開設され、市場町として発展。江戸時代は幕府領、旗本知行の村が多かった。市の北東部は湾入していた椿(つばき)海を干拓して開いた「干潟八万石(ひかたはちまんごく)」とよばれる地域の一角をなす。1951年(昭和26)に竣工した大利根用水(おおとねようすい)によって、九十九里平野の水田農業は安定した。現在は米作を中心にゴボウ、ネギなどの野菜生産のほか、マキなどの植木栽培、養豚も盛ん。成田国際空港に近く、八日市場には工業団地や住宅地が造成されている。県立九十九里自然公園に指定される海岸には、海水浴場、民宿などが整備され、海水浴客のほか釣り客も多い。日蓮宗飯高寺(はんこうじ)は、江戸時代には日蓮宗の関東八檀林(学問所)の一つに数えられ、飯高(いいだか)檀林ともよばれた。同寺の講堂、鐘楼、鼓楼、総門、および長徳(ちょうとく)寺の絹本著色普賢延命(ふげんえんめい)像、同愛染明王(あいぜんみょうおう)像はいずれも国指定重要文化財。木積(きづみ)の藤箕製作技術は国指定重要無形民俗文化財。面積101.52平方キロメートル、人口3万5040(2020)。
[編集部]
千葉県北東部の市。2006年1月八日市場(ようかいちば)市と野栄(のさか)町が合体して成立した。人口3万9814(2010)。
匝瑳市南部の旧町。旧匝瑳郡所属。人口1万0019(2005)。九十九里浜北部に位置する。内陸の岡集落,海岸の納屋集落,その中間の新田集落からなり,それぞれ砂丘上にある。かつては半農半漁であったが,沿岸漁業が衰退してからは農業が中心となった。畜産や花木,観葉植物の生産が行われる。県の農業試験場海岸砂地試験地(現,千葉県農林総合研究センター北総園芸研究所砂地野菜研究室)実験室が置かれ,トマト,キュウリの施設園芸も行われている。野手浜海岸には海水浴場が開かれ,近年は観光地引網が人気を呼んでいる。
執筆者:千葉 立也
匝瑳市中北部の旧市。九十九里平野北部に位置する。1954年市制。人口3万2067(2005)。中心の八日市場は,銚子街道に沿った帯状の市街地をなし,地名は中世末期から8の日に定期市が開かれたことに由来する。明治期には郡役所や県の出先機関が置かれた。近世末から明治末までは,問屋制家内工業による八日市場木綿の産地で,おもに東北地方に移出したが,大正期に養蚕業が盛んになり,九十九里平野の砂丘地は桑園となった。第2次大戦後はサツマイモの産地となり,デンプン工場が乱立した。現在は植木と野菜の栽培が盛んである。市域の北部は〈干潟八万石〉という大干拓地で,かつては干害に悩まされてきたが,県営大利根用水の完成によって安定した。また砂丘の間の深い泥田はれんこんの産地である。日蓮宗の学僧が集まった飯高檀林は徳川家康が1591年(天正19)に寺領30石を寄進したのに始まる。JR総武本線が通る。
執筆者:菊地 利夫
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