匝瑳南条庄
そうさなんじようのしよう
栗山川支流借当川以南の地、台地周辺の谷地と平野部を中心として展開した匝瑳郡の庄園。史料上確認できる庄内村郷としては現八日市場市の福岡郷・飯倉郷・米倉郷・吉田郷久方村、現光町の飯倉郷谷中村・篠本郷がある。平安時代末期、「和名抄」に記載される匝瑳郡が分割・再編され、中世的所領として南条・北条が成立するが、匝瑳南条は紀伊熊野山領として庄園化した。本来当庄は上総氏系匝瑳氏の所領であり、熊野山領の下司職も掌握していた(千葉大系図など)。寿永二年(一一八三)の上総権介広常の滅亡とともに当庄の支配権は千葉氏へと移り、その一門である椎名氏が庄内一円を所領としている。神代本千葉系図は千葉介常胤の弟に椎名五郎胤光を載せ、その支流は野手(現野栄町)、井戸野(現旭市)、松山・山桑・大浦・飯倉・福岡(現八日市場市)、小田部(現光町)など庄内各地に分布している。椎名氏の一族はそれぞれ村郷を単位とする地頭職を得て、積極的に新田開発を進めていた。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条によれば、同年二月日の関東知行国乃貢未済庄々注文に「下総国(中略)熊野領匝瑳南庄」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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