南野開
みなみのびらき
[現在地名]大和町明野
明官開の南、塩塚川左岸にあり、南は皿垣開など。慶長本土居完成以後開発された干拓地。慶長本土居西側の古屋敷・大西・黒木の内・北開一帯にあたる南野新田は、「柳河明証図会」の著者西原一甫(梭江)の祖西原新左衛門種元(寛文五年没)とその父勝右衛門種直(慶安四年没)によって開拓された(柳川地方干拓誌)。種元は柳川藩より田地一三〇石を拝領して居住したが、その地は中開の西に残る古屋敷の地であろう。種元の孫種房は正徳三年(一七一三)の大風雨で家財道具を流失し、のちに柳川城下に移住した。文政八年(一八二五)六五歳の西原一甫は江戸から柳川に戻り、祖先の拝領地南野新田の同家旧宅跡(中開古屋敷)に隠居家を新築して移り住んだ(西原家史・西原家史補遺)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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