山門郡(読み)やまとぐん

日本歴史地名大系 「山門郡」の解説

山門郡
やまとぐん

面積:一〇三・七八平方キロ
山川やまかわ町・瀬高せたか町・三橋みつはし町・大和やまと

県南部、筑後平野南東部とその東側丘陵部にある。北は筑後市・三潴みづま大木おおき町、西は柳川市、南は三池みいけ高田たかた町、東は八女やめ立花たちばな町に接し、南西は有明海に面する。筑後市境を西流してきた矢部やべ川が郡域中央部を南西へ流れ、飯江はえ川を合せて有明海に入る。矢部川から西へ分派した沖端おきのはた川が北西部を西へ流れ、塩塚しおつか川が柳川市境を南流して有明海に注ぐ。かつての山門郡域は柳川市の市街地(旧柳川城下)とその南方にあたる沖端川左岸地域、高田町北部の飯江川流域を含み、北東部瀬高町の矢部川南岸地域は下妻しもつま郡に属していた。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡には低位台地上に位置する瀬高町の権現塚北ごんげんづかきた遺跡、台地縁辺部に位置する山川町山の上やまのうえ遺跡がある。権現塚北遺跡では晩期の住居跡・埋甕・土坑が発見され、山の上遺跡では晩期の甕棺墓と石蓋土壙墓からなる墓地群が調査された。瀬高町の低台地上には弥生時代後期および古墳時代後期から奈良時代にかけての集落遺跡である権現塚遺跡および大規模な集落遺跡である大道端おおみちばた遺跡も立地する。同町平野部には権現塚古墳車塚くるまづか古墳が築造され、山川町の山麓部には前方後円墳である九折大塚つづらおおつか古墳・赤坂あかさか一号墳、帆立貝式前方後円墳のクワンスづか古墳などが築造されている。

和名抄」東急本国郡部には山門の郡名に「夜万止」の訓を付す。「日本書紀」神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年)三月二五日条には、皇后が「山門県」に至って土蜘蛛田油津媛を誅滅したという伝承を載せる。また「魏志」東夷伝倭人条にみえる「邪馬台国」の比定地の一つとしても知られている。律令制下での郡名の初見は「続日本紀」慶雲四年(七〇七)五月二六日条である。そこには斉明天皇七年(六六一)百済救援の際に出兵し、その後唐の捕虜となっていた三人が、遣唐使粟田真人らに伴われて帰国、その苦労を賞して衣・塩・穀を与えられたことが記され、そのうちに「筑後国山門郡許勢部形見」の名がみえる。奈良時代の遺跡には瀬高町御仁田おにた遺跡があり、石帯・円面硯が出土したことから山門郡衙とする意見もある。また前掲山の上遺跡からは「田前主帳」「田前」「国前」と記した刻書土器、風字硯、越州窯系青磁碗などが出土している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報