南野村(読み)みなみのむら

日本歴史地名大系 「南野村」の解説

南野村
みなみのむら

[現在地名]四條畷市江瀬美えせび町・雁屋北かりやきた町・雁屋南かりやみなみ町・雁屋西かりやにし町・北出きたで町・二丁通にちようどおり町・米崎こめざき町・楠公なんこう一―二丁目・南野一―六丁目・塚脇つかわき町・南野など

中野なかの村および同村分郷かみ郷・逢坂おうさか郷の南に位置し、南は北条ほうじよう(現大東市)。村域西部は低地で東高野街道が南北に通る。過半の東部は山地で、北条村との境に飯盛いいもり(三一四・三メートル、最高所は大東市)があり、その東方山間に四つの池からなるむろ(南野村・中野村・蔀屋村の立会)がある。室池辺りは古代の山家やまが(和名抄)に属したと考えられ、「延喜式」(主水司)に載る讃良さらら郡の氷室(讃良氷室)は同所にあったといわれている。室池の水は権現ごんげん川となって西方低地部に流下、水田を潤す。西部低地は甲可こうか(和名抄)に属したと推測され、条里制では讃良郡六条にあたる。この地域は東西約二千五〇〇メートルに及び(南北は約六五四メートル)、三十六・十ノ坪・十一・四ノ坪・十五の坪名を残す。一町(約一〇九メートル)ごとに権現川から雁屋川・なか川・後戸ごと川・江蝉えせび川・きた川を分流させて、一条が六町の条里制区画を典型的に残している。南北朝時代、四条縄手の戦の楠木正行塚を残し、この戦いに関係すると思われる小字古戦田こせんだがある。室町後期から戦国期には飯盛城の興亡があった(大東市の→飯盛城跡

戦国時代の甲可郷は北方岡山おかやまをも含み、北から北野きたの村・なかノ村とよばれたのに対し、当地は南野村と称した(明治一五年南野村誌・岡山村誌・中野村誌「四條畷市史」所収)。室町時代後期―戦国時代の甲可郷は結城氏の支配下にあった。

南野村
みなみのむら

[現在地名]伊丹市南野一―五丁目・南野・安堂寺町あんどうじちよう一―七丁目・若菱町わかびしちよう三―五丁目・柏木町かしわぎちよう一―三丁目・稲野町いなのちよう六丁目・同八丁目・御願塚ごがづか八丁目・鈴原町すずはらちよう八―九丁目・南鈴原みなみすずはら一―四丁目・美鈴町みすずちよう一―二丁目

野間のま村の東に位置し、有馬ありま街道に沿う。慶長国絵図に村名がみえ、高七五三石余。正保郷帳ではほかに新田一五〇石余があり実質は高九〇三石余。元禄国絵図(内閣文庫蔵)では高九四三石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では幕府領大和小泉藩預地。同年大部分が尼崎藩領に、一部が伊予大洲藩領となり、大洲藩領分は安永九年(一七八〇)幕府領同藩預地になり明治維新を迎えた。残りの一部は元和三年以降も幕府領だったが、元禄七年(一六九四)武蔵忍藩領、文政六年(一八二三)幕府領に戻り、同一一年尼崎藩領となり明治維新を迎えた(伊丹市史)。正保郷帳では高五九三石余と新田高一五〇石余が尼崎藩領、高九六石余が大洲藩領、高六三石余が幕府領。

南野村
みなみのむら

[現在地名]余目町南野

廻館まわたて村の南東にある。清川きよかわ(現立川町)から酒田へ向かう道が東西に貫通し、北楯大きただておお堰が東から西に流れる。古くは最上川左岸にあり、明石あかし(赤石)村と称していたが、たびたびの最上川氾濫により耕地を失った。慶長一七年(一六一二)北楯大堰が開削されると安住の地を求めて南方の現在地に移住、当村を開発したという。草分百姓は渋谷家・荒木家と伝える。開村は元和元年(一六一五)とする説(「最上川土地改良区史」など)と、元和九年とする説(「渋谷家南野開発日記」伊藤文書・「荒木家系図調」余目町史)がある。

南野村
みなみのむら

[現在地名]引田町南野

馬宿うまやど川東側の平地部に位置する。村の南に低い山地が連なる。南は川股かわまた村、西は黒羽くれは村、北は馬宿村。東の坂元さかもと村とともに古くは梨木なしのき村といわれ、慶長四年(一五九九)一二月日の生駒一正宛行状(遠山文書)によると、「大内郡なしの木」の一〇〇石が遠山吉左衛門の知行となっている。また寛永七年(一六三〇)の引田馬宿浦鰯網出入覚書(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)に梨木政所久兵衛の名がみえる。寛永国絵図には引田郷のうち、のちの南野村の地に「梨子木」と記され、「坂本」は別記されているので、梨木村の中心は南野であったと考えられる。

南野村
みなみのむら

[現在地名]南区南野・星崎ほしざき

天白てんぱく川の西に広がる村で、江戸時代後期の村絵図(愛知県立図書館蔵)によれば、集落は村の北、本地ほんじ村に接する部分に開け、天白川筋は字を河原といった。「徇行記」によれば田が一八町六反五畝余、畑が一二町四反余。

「寛文覚書」には「塩浜弐拾弐町五畝歩」「塩屋弐拾七軒」とある。昭和四六―四七年(一九七一―七二)の発掘調査により、中世末から近世初めの時期と考えられる塩屋跡が確認され、塩屋で用いた板石や土棒が出土した。村絵図に「塩浜字南前、塩浜字北前」と記され、繰出くりだし新田が築かれるまでは製塩が主産業であった。

南野村
みなみのむら

[現在地名]亀山市南野町

亀山城の南西にあたる。鈴鹿川低地部の北、竜川たつがわ小渓谷の西に屹立する舌状台地上に立地。亀山地方で最も古くから開けていた地域の一で、宗英そうえい寺北の河岸段丘にある野村のむら遺跡からは縄文前期や後期の土器片のほか石斧、石錐、弥生式土器片が出土している。近世を通じて士族屋敷地で、享保一七年(一七三二)には家中屋敷四六軒、長屋二ヵ所、足軽長屋二組分が、延享元年(一七四四)には士分四七人と稲荷前いなりまえに足軽長屋一九軒が置かれていた(鈴鹿郡野史)。屋敷地の西には、嘉永六年(一八五三)致仕した藩主石川総和が数奇を凝らして造った隠居所喬松きようしよう館があり新御殿ともよばれたが、明治初年、藩内天誅組によって破却されたという(亀山地方郷土史)

南野村
みなみのむら

[現在地名]大和町さかえ

下塩塚しもしおつか村の南、矢部やべ川支流塩塚川左岸にある。柳川藩領図に「高尾之内南野」とあり、鷹尾たかお村の南の野が開発されて成立したとみられる。元禄国絵図・天保郷帳には村名は記載されず、鷹尾村に含まれているとみられる。旧高旧領取調帳に村名がみえ、高四三一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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