柳川(読み)ヤナガワ

デジタル大辞泉 「柳川」の意味・読み・例文・類語

やながわ【柳川】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「柳川」姓の人物
柳川検校やながわけんぎょう
柳川春葉やながわしゅんよう

やながわ【柳川】[地名]

福岡県南西部の市。有明海に面し、筑後川矢部川の間の低地にあり、水路網が発達。もと立花氏の城下町造り酒屋であった北原白秋生家がある。もと「柳河」と書いた。人口7.1万(2010)。

やな‐がわ〔‐がは〕【柳川】

柳川鍋」の略。

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精選版 日本国語大辞典 「柳川」の意味・読み・例文・類語

やながわやながは【柳川】

  1. 〘 名詞 〙
  2. [ 1 ]やながわなべ(柳川鍋)」の略。
    1. [初出の実例]「後年両国の鰻屋柳川といふのが初めて骨抜鰌を売出したので、今でも柳川と名に残ってゐる」(出典:報知新聞‐明治三六年(1903)七月二一日)
  3. [ 2 ] 福岡県南西部の地名。筑後川の河口左岸にあり、有明海に面する。江戸時代、立花氏一一万石の城下町として発達。干拓地が広く、クリーク縦横に走る水郷都市。ノリ養殖イグサの栽培・加工などを行なう。北原白秋の生地。昭和二七年(一九五二)市制。

やながわやながは【柳川・柳河・梁川】

  1. 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「柳川」の意味・わかりやすい解説

柳川[市] (やながわ)

福岡県南西部の市。2005年3月旧柳川市と三橋(みつはし)町,大和(やまと)町が合体して成立した。人口7万1375(2010)。

柳川市北東部の旧町。旧山門(やまと)郡所属。人口1万8454(2000)。筑紫平野南端部にあり,筑後市と旧柳川市にはさまれる。町域全体が低湿な三角州のクリーク地帯で,矢部川支流の沖端川,塩塚川が西流し,五十町,百町,沖田,新村,吉開(よしがい)など開拓集落の展開を示す地名が多い。町域の80%以上に及ぶ水田は大型圃場整備事業の実施により高生産力を誇っている。米作のほか,ナスやレタスのハウス栽培が盛んで,イグサの栽培・加工も行われる。柳河藩祖立花宗茂などをまつる三柱(みはしら)神社は桜の名所で,柳川の川下りの発着場ともなっている。西部を西鉄大牟田線が通じる。
執筆者:

柳川市西部の旧市。筑後川の河口東岸を占め,有明海に臨む。1952年市制。人口4万1815(2000)。筑紫平野南部の中心に位置し,北半はクリーク網の密な三角州,南半は堤防列がうろこ状に走る干拓地で,全域が低平である。中心市街の旧柳河町は戦国時代この地の豪族蒲池(かまち)氏の城下町として発達し,筑後南部の中心をなしてきた。明治期からは鹿児島本線や国道3号線などが離れて設けられたため,一時発展が停滞したが,昭和に入って佐賀線の全通(1935。87年廃止)と西鉄大牟田線の開通(1938)などによりしだいに活気をとりもどした。近年は水郷風景や城下町の面影,ここに生まれた北原白秋の家や詩碑を訪ねる観光客が増加している。市域の8割余が水田で,米やイグサの栽培が行われ,有明海ではノリ養殖が盛んである。イグサや水産物を加工する地場産業があり,1964年不知火・有明・大牟田地区新産業都市の指定を受け,工業開発も進められている。藩主立花家の庭園松濤(しようとう)園(名)や多くの文化財を蔵する洋館〈お花〉,戸島氏庭園(名),藩祖をまつる三柱神社,1965年湧出の柳川温泉があり,〈ドンコ舟〉による川下りなどの名物がある。
執筆者:

筑後国の城下町。戦国時代,蒲池氏がここに城を築いていた。1587年(天正15)立花宗茂が入部,1600年(慶長5)筑後一国を領した田中吉政が城主となり,城郭を拡大し,城下町を建設した。20年(元和6)立花宗茂が再入部した。柳河は矢部川の分流の沖端(おきのはた)川と塩塚川に挟まれた三角州地帯に位置し,両川をもって城下を限っている。平城であるので外敵に備えて,外濠,内濠のほか掘割りを縦横にめぐらしている。内郭に武家屋敷,その北東に当たる外郭に町人町を配置した。内郭の出入口である辻門から辻町,中町,上町と南北に連なる町筋と,辻町から東へのびる瀬高町が城下町の中心で,富商が軒を並べていた。上町の北詰の出橋門(井手橋門)は久留米および佐賀方面への出口に当たり,沖端川にかけられた出橋の北側に本船津町があった。ここは有明海から沖端川を遡航してくる商船の集まるところで,満潮時には300石船の出入りができた。城下の東の瀬高門は瀬高,三池へ通ずる街道の起点であった。町の西端および瀬高門付近には寺院が集められている。後に城の南西方,外町口に接した沖端に町ができた。

 町政は藩の寺社町奉行に属する町別当が担当した。当初は中村氏が別当を務めたが,中村氏断絶後は蒲池氏ゆかりの旧家の出の3人の別当が交代で年行司を務めた。さらに後には町が本町組と瀬高町組に分けられ,各組に別当が置かれた。町民は五人組に組織され,組頭が1人ずつ任命された。1752年(宝暦2)の町家数は1048軒,人口は4584人であった。1864年(元治1)では1366軒,5515人である。城下町柳河は領内の商品流通の要ではあったが,生産面では伝統的手工業があったにすぎなかった。
執筆者:

柳川市南東部の旧町。旧山門郡所属。人口1万7343(2000)。筑紫平野南部に位置し,東西を矢部川と支流の塩塚川によって画され,南は有明海に面する。大部分が標高4m以下の低平で肥沃な土地からなり,クリークが縦横に通じる。水田が町域の80%を占め,1969年に完成した国営大和干拓地(330ha)では大型機械を導入して大規模な米作が行われている。裏作としてのレタス,イグサの生産も伸びている。有明海ではノリ養殖が盛んで,全国に出荷されている。矢部川西岸の河港中島は国道208号線と西鉄大牟田線が通じ,有明海有数の漁港として発展している。沿岸数kmが干潟となる海岸は,5月には潮干狩り客でにぎわう。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳川」の意味・わかりやすい解説

柳川(市)
やながわ

福岡県南西部にある市。1951年(昭和26)柳河(やながわ)町が城内(しろうち)、西宮永(にしみやなが)、東宮永、沖端(おきのはた)、両開(りょうかい)の5村と合併して柳川町となる。1952年市制施行。1955年昭代(しょうだい)、蒲池(かまち)の2村を編入。2005年(平成17)山門(やまと)郡三橋町(みつはしまち)、大和町(やまとまち)を合併。有明海(ありあけかい)に臨み、筑後川(ちくごがわ)河口左岸の低平な三角州平野とうろこ状の干拓地からなり、クリーク網が発達している。西日本鉄道天神大牟田(おおむた)線が通じ、国道208号、385号、443号も通じている。永禄(えいろく)年間(1558~1570)蒲池氏が築城したのち、1620年(元和6)立花宗茂(たちばなむねしげ)が移封され11万石の城下町として栄えた。明治以降廃藩や鉄道建設反対により衰退したが、現在は水郷柳川と称せられる観光地となっている。主産業は広範な水田地帯で行われる稲作を中心とした農業で、イグサ生産も盛んである。有明海でのノリ養殖と貝類採取を中心とした漁業も盛んであるが、製造業は農水産物加工が中心で、みるべきものはない。柳河城跡をはじめ、沖端にある造り酒屋で明治のおもかげを伝える北原白秋生家(白秋記念館)、白秋詩碑苑(えん)、国指定名勝の松濤園(しょうとうえん)や明治建築が残り「御花」の名で親しまれた旧立花家別邸、同じく国指定名勝の戸島氏庭園(としましていえん)、福厳寺(ふくごんじ)などがある。三柱(みはしら)神社前の乗船場から、水面に映るヤナギや白壁の土蔵殿の倉(とののくら)、れんが造の並倉(なみくら)などの風景を楽しむ沖端までの川下り遊船は観光の中心である。上宮永にある柳川温泉は1965年掘削による新興温泉。ウナギのせいろ蒸しは名物料理。面積77.15平方キロメートル、人口6万4475(2020)。

[石黒正紀]

『光行照太・藤丸満編『柳川史話』全3巻(1956・柳川郷土史刊行会)』『『柳川市史』全47巻(1993~ ・柳川市)』


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百科事典マイペディア 「柳川」の意味・わかりやすい解説

柳川[市]【やながわ】

福岡県南部の市。1952年市制。筑後川河口左岸の三角州を占め,有明海に臨む。中心市街は立花藩の城下町として発達。筑紫(つくし)平野水田地帯の一部で,米作と園芸作物,イグサの栽培が盛ん。市街地にも水路が縦横に走り,水郷風景で知られる。沿岸は干拓地が広く,採貝と水産加工が盛んであるが,またノリの養殖も発展している。西鉄天神大牟田線が通じる。柳川温泉,松濤園(名勝),戸島氏庭園(名勝)などがあり,北原白秋の生家と記念館がある。2005年3月山門郡大和町,三橋町を編入。77.15km2。7万1375人(2010)。
→関連項目棚倉藩

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