南長野村(読み)みなみながのむら

日本歴史地名大系 「南長野村」の解説

南長野村
みなみながのむら

[現在地名]美里村南長野

笠取かさとり(八二八メートル)の東麓にある村。柳谷やないたに村の西にあたる。笠取山東斜面に水源を発する南長野川と長野川の合流する地点の平地部に集落が点在する。「五鈴遺響」には「属邑多シ、豊後観音寺、小福寺、爪生、向出、北輪等ノ小名アリ」と集落名を載せる。「宗国史」も「三国地志」も「観音寺」以外の集落名を載せるが、豊後が分郷ぶんごとして残る以外、現在これらの地名は失われている。

南北朝期、工藤氏の子孫と称する長野氏が桂畑かつらはた村に砦を築いて以後その支配下に入ったが、戦国末期長野氏没落後は津城主織田信包の所領となり、津城主が富田信高に替わるとその領となり、慶長一三年(一六〇八)藤堂氏入封以後は津藩領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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