千手寺(読み)せんじゆじ

日本歴史地名大系 「千手寺」の解説

千手寺
せんじゆじ

[現在地名]東城町川東

焚火たくひ山南東の山腹にある。花谷山吉祥峰と号し、曹洞宗。本尊は千手観音

寺伝によれば、天平年間(七二九―七四九)行基によって開かれたといい、当初山号を吉祥山と称した。南北朝時代の初め頃から品治ほんじ新市しんいち(現芦品郡新市町)本拠を置く宮氏一族の崇敬を得、ことに宮満重は貞治六年(一三六七)仏殿堂舎を改築寄進し、翌年臨済宗の仏眼道済禅師が落慶法要を営み中興開基になったという。以来、臨済宗の寺院として宮氏、次いでその支流と考えられる久代くしろの宮氏の崇敬を受けたが、毛利氏による宮氏の国替によって、天正一九年(一五九一)石見国邑智おうち佐波さわ(現島根県邑智郡邑智町)から佐波越後守広忠が五品嶽ごほんがだけ城主として入部したとき、父常陸介隆秀が、同郡沢谷さわたに花の谷はなのたに(現邑智町)にあった菩提寺の花谷山大竜だいりゆう寺と、その末寺で旧菩提寺であった東禅とうぜん寺を当地に移し、千手寺に合祀させた。


千手寺
せんじゆじ

[現在地名]氷見市幸町

朝日あさひ山北面の山麓中腹にあり、金橋山と号し、高野山真言宗。本尊千手観音。南東向きに本堂・金毘羅堂が並び、北東を向いて観音堂が回廊で結ばれる。明治まで東側隅に聖天堂が建っていたが、昭和四八年(一九七三)金毘羅堂の改築の折に合祀されて現在その建物はない。越中観音霊場五番札所(稿本越の下草)。貞享二年寺社由緒書上によれば、恵林法印によって白鳳一〇年に開かれたと伝える。


千手寺
せんじゆじ

[現在地名]磐田市千手堂

千手堂せんずどう地区の西方、県道磐田停車場いわたていしやじよう長野ながの線の西側にある。慈眼山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は千手十一面観音。寺伝によると正元二年(一二六〇)の開創で真言宗であったが、元禄元年(一六八八)臨済宗に転じたという。慶長六年(一六〇一)黒印高二石を与えられ、慶安二年(一六四九)観音堂領として朱印高二石となった(磐田郡誌)。本尊千手十一面観音は白拍子千手前の持仏と伝えているが、後世、千手前と千手観音の両者が結びつけられたらしい。口碑によると、平重衡が鎌倉に滞在していた寿永三年(一一八四)四月から翌四年六月まで、白拍子千手前がその世話をしていたが、重衡が処刑されたのち千手前は尼となって当地(白拍子村)に閑居し、そこで没したという。


千手寺
せんじゆじ

[現在地名]亀岡市田野町鹿谷

鹿谷ろくやの北西山腹にある。独鈷抛山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊釈迦如来。観音堂には千手観音(坐像、鎌倉時代)が安置される。

独鈷抛山千手寺略縁起(「桑下漫録」所収)によれば、山号と寺号は空海が唐からの帰途投じた独鈷を、帰朝後、春日明神のお告げで当地で発見、千手観音を刻んだことによるという。その後、霊場の高峰に毎夜怪光が現れたため、吉岡某なる者が矢を射ると、矢は観音の左眼に当たったので、彼は罪を悔い、末代まで弓箭を捨てることを誓ったという。これより観音は眼病に苦しむ者に霊験を与えるとして信仰を集めたと伝える。


千手寺
せんじゆじ

[現在地名]東大阪市東石切町三丁目

真言毘盧舎那宗、山号慧日山、本尊千手観音。天正二年(一五七四)に記された寺蔵の縁起によると、笠置かさぎ(現京都府相楽郡笠置町)の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し慧日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂をひかり堂とよび、この地を神並こうなみの里とよぶようになった。その後、弘法大師が止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢中に現れて補陀落山の香木を与え、大師は歓喜して千手観音像を刻し本尊とし、寺を中興した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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