日本歴史地名大系 「安芸郡」の解説
安芸郡
あきぐん
高知県の東端に位置し、南は当郡を割いて成立した室戸市、北西は同じく安芸市であるが、その西にある芸西村は現安芸郡の飛地となっている。北東は徳島県
郡名は「続日本紀」神護景雲元年(七六七)六月二二日条に「土左国安芸郡少領」とみえるのが早い。戦国時代末期、長宗我部元親が安芸郡を掌握した時、表記を「安喜」に改めたといわれ、近世には安芸・安喜が混用されるが、明治四年(一八七一)安芸に統一された。なお
〔原始・古代〕
安芸郡は県下でも考古遺跡の少ない地域で、縄文時代の遺跡の発見は少なく、海岸部はともかく、北川村や馬路村の山岳地は狩猟民にとっても立入りがたい地であったと思われるが、芸西村に
「続日本紀」によれば、神護景雲元年、安芸郡少領凡直伊賀麻呂が奈良西大寺に稲二万束と牛六〇頭を献上して外従五位上を授けられたことが知られる。この凡氏の居住地は、安田町の古墳に関連づけてその付近であったともいうが、現室戸市
安芸郡
あきぐん
広島県西南部、広島湾東岸域および江田島・倉橋島・上蒲刈島・下蒲刈島などの島嶼部を郡域とする。湾岸部は
郡名は宝亀一一年(七八〇)一二月二五日付の西大寺資財流記帳(西大寺文書)に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻」とみえ、郡域はほぼ現安芸郡および広島市東半部・呉市西北部を占めた。「三代実録」貞観四年(八六二)七月二七日条に「安芸国安芸郡始置主政一員」とみえ、この時中郡とされたらしい。一〇世紀後半以降国衙支配の変質に伴って郡の分割が行われるが、長治三年(一一〇六)二月一九日付丹治近恒田畠売券(「安芸国徴古雑抄」所収厳島文書)に「畠壱町玖段 加安南坪井畠定」、保延五年(一一三九)六月日付藤原成孝同範俊連署寄進状(浅野忠允氏旧蔵厳島文書)に「南限加留賀安北郡堺」とあり、平安末期までには
〔原始・古代〕
「国造本紀」に阿岐国造がみえ、その名の原拠ともなる安芸国安芸郷は府中町一帯に比定されている。律令制施行当初からのものかどうか説が分れるにせよ、府中町は平安時代には国衙所在地として安芸国の政治的中心地であり、同町の
安芸郡
あげぐん
伊勢国のほぼ中央にあり、北は鈴鹿市・亀山市・鈴鹿郡、西は阿山郡、南は
この地域の西方布引山地は、片麻岩と花崗岩とからなる古生代の地層であるが、そこから海岸に向かって延びる低い丘陵は、多くは奄芸層群とよばれる第三紀鮮新世のもので、約一千二〇〇万―一千三〇〇万年前に、伊勢湾が広い湖水であった当時の湖底堆積物からなる地層といわれている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報