原 彪
ハラ ヒョウ
- 肩書
- 元・衆院議員
- 生年月日
- 明治27年11月24日
- 出生地
- 岡山県笠岡市
- 学歴
- 東京帝大法学部政治学科〔大正10年〕卒
- 経歴
- 鉄道教習所、明治大学各講師、法政大学教授を歴任。大正13年吉野作造、安部磯雄らと日本フェビアン協会を設立、15年日本独立労働協会、また社会民衆党に参加。昭和7年社会大衆党結成にも加わり、中央執行委員。戦後20年日本社会党結成に参加、中央執行委員。22年衆院議員当選、以来8回当選。28年左派社会党から衆院副議長。33年社党顧問、護憲連合代表委員、日中国支回復特別委員長として活躍。42年の衆院選で落選、党籍離脱。
- 没年月日
- 昭和50年12月17日
原 彪
ハラ タケシ
- 肩書
- 衆院議員(改進党)
- 生年月日
- 明治37年10月
- 出生地
- 茨城県
- 学歴
- 東京帝大経済学部商業科〔昭和5年〕卒
- 経歴
- 三井物産から朝日組、賀田組各取締役を経て霞ケ浦造船所常務。昭和20年から土浦市長を2期務め、22年茨城3区から衆院選に当選、日本民主党所属。以後当選3回。衆院文部委員長、同党副幹事長、国民民主党代議士会長、改進党中央常任委員などをを歴任。また土浦観光協会理事長、体育協会会長、霞ケ浦農科大学理事長も務めた。
- 没年月日
- 昭和29年1月23日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
原 彪
ハラ ヒョウ
昭和期の政治家 元・衆院議員。
- 生年
- 明治27(1894)年11月24日
- 没年
- 昭和50(1975)年12月17日
- 出生地
- 岡山県笠岡市
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法学部政治学科〔大正10年〕卒
- 経歴
- 鉄道教習所、明治大学各講師、法政大学教授を歴任。大正13年吉野作造、安部磯雄らと日本フェビアン協会を設立、15年日本独立労働協会、また社会民衆党に参加。昭和7年社会大衆党結成にも加わり、中央執行委員。戦後20年日本社会党結成に参加、中央執行委員。22年衆院議員当選、以来8回当選。28年左派社会党から衆院副議長。33年社党顧問、護憲連合代表委員、日中国支回復特別委員長として活躍。42年の衆院選で落選、党籍離脱。
原 彪
ハラ タケシ
昭和期の政治家 衆院議員(改進党)。
- 生年
- 明治37(1904)年10月
- 没年
- 昭和29(1954)年1月23日
- 出生地
- 茨城県
- 学歴〔年〕
- 東京帝大経済学部商業科〔昭和5年〕卒
- 経歴
- 三井物産から朝日組、賀田組各取締役を経て霞ケ浦造船所常務。昭和20年から土浦市長を2期務め、22年茨城3区から衆院選に当選、日本民主党所属。以後当選3回。衆院文部委員長、同党副幹事長、国民民主党代議士会長、改進党中央常任委員などをを歴任。また土浦観光協会理事長、体育協会会長、霞ケ浦農科大学理事長も務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
原彪 はら-ひょう
1894-1975 昭和時代の政治家。
明治27年11月24日生まれ。吉野作造の指導をうけ,法大教授となる。安部磯雄の下で社会運動にはいり,昭和7年社会大衆党に入党。戦後,社会党結成に参加し,21年衆議院議員(当選8回)。26年の党分裂後は左派社会党に属し,28年衆議院副議長となる。昭和50年12月17日死去。81歳。岡山県出身。東京帝大卒。
原彪 はら-たけし
1904-1954 昭和時代後期の政治家。
明治37年10月26日生まれ。昭和20年茨城県土浦市長,22年衆議院議員(当選3回)。民主党副幹事長,のち改進党中央常任委員。土浦市保健組合,観光協会の理事長などもつとめた。昭和29年1月23日死去。49歳。茨城県出身。東京帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
原 彪 (はら ひょう)
生年月日:1894年11月24日
昭和時代の政治家。衆議院議員;日中国支回復特別委員長
1975年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報