キリスト教社会主義者。政治家。元治(げんじ)2年2月4日福岡藩士岡本権之丞(おかもとごんのじょう)(?―1917)の次男に生まれる。同志社に学び、新島襄(にいじまじょう)より受洗。卒業後岡山教会に赴任。しだいに社会問題に関心をもち、1891年(明治24)から1895年にかけてのアメリカ、イギリス、ドイツ留学では、聖書の歴史を学ぶかたわら社会問題を考究し、その解決を社会主義にみいだすに至った。帰国後、岡山教会牧師、同志社教授を経て、1899年東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)教授に就任。また同年より『六合(りくごう)雑誌』の主筆となり、キリスト教社会主義を論じ、さらに社会主義研究会(1900年社会主義協会と改称)や社会民主党などの結成に重要な役割を果たした。日露戦争では非戦論を展開。このほか都市問題について旺盛(おうせい)な言論活動を行った。1905年(明治38)木下尚江(きのしたなおえ)らとキリスト教社会主義の雑誌『新紀元』を創刊。1910年の大逆(たいぎゃく)事件後は第一線から退いたが、廃娼(はいしょう)運動、産児制限運動などに取り組み続けた。1924年(大正13)日本フェビアン協会を結成して社会主義運動を再開。1926年社会民衆党委員長に就任し、さらに早大教授を辞して1928年(昭和3)の第1回普通選挙に立候補、当選(以後4回当選)。1932年の同党分裂に際し、社会大衆党を結成して委員長に就任したが、1940年反軍演説事件の斎藤隆夫(さいとうたかお)議員除名問題で離党、勤労国民党を結成したものの当局に禁止され、政界を引退した。第二次世界大戦後は日本社会党顧問を務めた。昭和24年2月10日死去。早稲田大学野球部の創立者としても知られる。
[阿部恒久 2018年3月19日]
『安部磯雄著『社会主義者となるまで』(1932・改造社/1947・明善社)』▽『片山哲著『安部磯雄伝』(1958・毎日新聞社/複製・1991・大空社)』▽『平民社資料センター監修、山泉進編集・解題『平民社百年コレクション3 安部磯雄』(2003・論創社)』
キリスト教社会主義者。社会運動の先駆者で社会主義の啓蒙家。福岡藩士の次男に生まれた。同志社時代に新島襄より洗礼を受け,アメリカのハートフォード神学校,ベルリン大学にも学んだ。1895年に帰国後同志社教授となり,99年より東京専門学校(現,早稲田大学)教授を務めた。かたわらユニテリアン教会に所属し,キリスト教的人道主義の立場から社会・労働運動に貢献した。労働組合期成会に関係したあと,1898年片山潜,幸徳秋水らと社会主義研究会を組織し,1900年社会主義協会に発展させると,その会長となり翌年の社会民主党の結成にも尽力した。日露戦争には非戦論に同調して週刊《平民新聞》を援助したが,幸徳や堺利彦らとは立場を異にした。05年キリスト教社会主義の啓蒙のために石川三四郎らと《新紀元》を発刊したが,大逆事件以後は社会主義の実践活動から離れた。その後日本フェビアン協会会長を務めて社会民主主義の宣伝を行い,労働農民党,社会民衆党の結成にかかわり,32-40年社会大衆党の委員長に就任した。第2次世界大戦後は社会党の顧問ともなった。この間,代議士当選4回,東京市会議員にも選ばれた。以上の社会運動とは別に早大野球部を創立し,早慶戦の端緒をつくり,また嘉納治五郎らと大日本体育協会を創設(1912),戦後は日本学生野球協会会長も務めるなど近代スポーツ導入に役割を果たした。熱心な産児制限論者で廃娼運動にも永年携わった。著書に《社会問題解釈法》(1901),《土地国有論》(1914)など。
執筆者:橋本 哲哉
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明治〜昭和期のキリスト教社会主義者,社会運動家,政治家,教育者 衆院議員;社会大衆党委員長;早稲田大学教授・野球部初代部長。
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(有馬学)
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1865.2.4~1949.2.10
明治~昭和期の社会主義者。筑前国生れ。同志社に学び,海外留学から帰国後,東京専門学校講師となる。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を唱え,1901年(明治34)社会民主党を結成した。10年の大逆事件以後,社会主義運動から退き,学生野球などのスポーツ振興に尽力。24年(大正13)日本フェビアン協会を創立,同年6月大山郁夫(いくお)らと政治研究会をつくる。26年(昭和元)労働農民党の結成を指導し,同年12月右派の社会民衆党を結成して委員長,32年7月にはその後身の社会大衆党の委員長となった。その間28年の総選挙から4度衆議院議員に当選し,第2次大戦後は日本社会党の顧問となる。
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[日本における産児制限運動]
20世紀初頭に新マルサス主義が日本に紹介されたが産児制限運動にはつながらなかった。1918,19年ころ安部磯雄,山本宣治その他の進歩的社会運動家が日本文化進展のため産児制限の必要を説き,また当時神戸の貧民街で救療に従事していた馬島僴(かん)(1893‐1969)は医療救済の観点からこの運動を始めた。アメリカ留学中にサンガーを知った石本(のちの加藤)シヅエも帰国,紹介した。…
…(1)1898年に〈社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究する〉目的で設立された社会主義研究会を,1900年1月に社会主義を〈日本に応用すること〉を目的に改組した日本最初の社会主義者の組織。安部磯雄を会長に,片山潜,幸徳秋水らを擁して社会主義の研究と啓蒙にあたり,平民社と一体となって草創期の日本社会主義に大きな足跡を残したが,日露戦争中の04年11月に警察当局から解散を命じられた。(2)1951年1月,戦前の労農派の流れをくむ山川均,大内兵衛,向坂逸郎らの理論家に太田薫,岩井章,高野実らの労働運動指導者が加わって発足し,6月に雑誌《社会主義》を創刊。…
…このため孤立を恐れた両党は合同することによって危機をのりきろうとした。委員長安部磯雄(旧社民系),書記長麻生久(旧日労系)として結党し,機関紙《社会大衆新聞》を発行。社会民衆党の三反主義(反資本,反共,反ファシズム)を継承して,戦争に反対せず,反共主義の立場をとり,他方で露骨な国家社会主義とも一線を画した。…
…1923年末から労農団体や革新的知識人の間で合法無産政党結成の気運が盛り上がるが,日本労働総同盟(総同盟)などの右派は当局の弾圧を利用して日本労働組合評議会(評議会)など共産系を排除して,26年3月に労働農民党(労農党)を結成した。結党後,左派の門戸開放運動がすすみ地方を中心に左派が党内に進出してくると,総同盟や官業労働総同盟など右派勢力の代表は同党を脱退し,安部磯雄,吉野作造,堀江帰一の呼びかけに応じるというかたちで,同年12月5日に社会民衆党を結成した。その方針は,現実主義,反共主義,合法主義の社会民主主義路線を旗印に,総同盟,官業労働総同盟,全日本農民組合総同盟などを主要基盤とし,委員長に安部磯雄,書記長に片山哲(1930年から赤松克麿)が就任した。…
…宣言書を掲載した《東京横浜毎日新聞》《労働世界》《万朝報》なども発禁となった。発起人は,安部磯雄,片山潜,河上清,木下尚江,幸徳秋水,西川光二郎の6人で,幸徳を除きすべてキリスト者である。結党の背景には,労働組合期成会(1897結成)を中心とした労働組合運動が1900年治安警察法制定により衰退,期成会中心メンバーの一人の片山らが政治運動によって局面を打開しようとしたことがある。…
…さらに《都市社会主義》(1903)では〈都市問題の解決方法なるが……都市をして小数強欲なる資本家等の銭儲け場所たらしめず,真に一般市民の家庭たらしむには,勢ひ市政に社会主義を応用せざるべからず〉として,ガス,水道,電灯,鉄道等を市民のための市有とするよう主張する。なお安部磯雄も《都市独占事業論》(1911)で類似の主張をしている。 しかし,こうした公園・住宅・上下水道等を市民の立場から改良する問題意識も,治安警察法(1900),新聞紙法(1909)から大逆事件(1910)に至る動きのなかで,片山自身〈資本主義の下に於て都市改良の容易に絶対に望まれぬことを自覚した今の予は別段に趣味を持たない〉(《自伝》1922)と述べるに至った。…
※「安部磯雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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