自由民権運動期の政党〈立憲改進党〉の略称,また第2次大戦後の民主党の系統をひく政党〈改進党〉をいう。
自由党結成に遅れること半年,1882年4月に明治14年の政変で下野した大隈重信を総理に結成された。すでに大久保利通没後の政府筆頭参議の時代から,岩崎弥太郎の三菱と経済的きずなを結び福沢諭吉の慶応義塾を優秀な官僚の人材補給源として握っていた大隈は,党結成にあたってそれらの資産を十分に活用し,大隈とともに下野した官僚を幕下に収めた。彼らはいずれもイギリス流の立憲政治を目標にしており,なかでも矢野文雄(竜渓)は,14年政変の原因となった政党内閣論と早期国会開設とを説いた大隈意見書の起草者であり,小野梓は薩長打倒のため在官中から政党組織化を進めていた。そこで改進党の指導部は元官僚,新聞記者,代言人,教師など都市知識人のグループを中心に形成され,沼間守一,島田三郎らの嚶鳴社・東京横浜毎日新聞派,矢野ら慶応関係者の東洋議政会・郵便報知新聞派,小野らの鷗渡会派の3系統に大別される。また綱領には,内治改良と国権伸張,地方自治の基盤確立,選挙権伸闊,対外通商関係の発展など,自由党に比べて具体的政策を列挙した。そして府県会議員層を中心に地方有力者を組織化する戦略を進め,82-83年には改進党の有力拠点たる東京府会をはじめ各地府県会で,地租軽減,郡区長公選などの建議活動を行った。やがてそれは全国府県会議員懇談会の組織化へと進んだものの,1882年末政府が国政問題の府県会での建議禁止,府県会議員の連合通信禁止に踏み切ったため,〈穏健着実〉というイメージの下に〈地方改良〉の全国化として〈国事改良〉を目ざす改進党の戦略は,大打撃を受けるに至った。
さらに板垣退助洋行問題をとらえて自由党攻撃を行った改進党は,逆に自由党から〈偽党撲滅・海坊主退治〉の攻撃を受け,両党は対立抗争の中で活動が弱体化していく。自由民権運動の激化事件により統制力を失った自由党の解党後まもなく,改進党も組織改革問題から党内対立を生じ,84年12月総理大隈が脱党し,事実上活動を停止してしまう。その後86年10月星亨らの呼びかけで,旧自由党および改進党系の大同団結を目ざした全国有志大懇親会が開かれた。しかし改進党からはほとんど大同団結運動に加わらなかった。その一因は星に対する不信感にあるが,井上馨の条約改正失敗の後,脱党後も,裏面で改進党を指導していた大隈入閣による伊藤博文内閣と改進党との提携構想が進展したことにもよる。結局88年2月大隈は外相に就任し,黒田清隆内閣でも政府と改進党の提携は続く。やがて再入閣した井上は大隈の協力の下に,改進党-自治党連合による大同団結派に対する優位の確立に尽力する。だが大同派の後藤象二郎の入閣による黒田内閣の挙国一致内閣化に加え,大隈の条約改正に対する反対運動の高揚によりこの戦略は失敗し,大隈は文字どおり失脚した。
90年総選挙の後,自由三派,九州同志会,改進党に政党大合同の気運が高まったが,最終的に改進党は参加しなかった。第1議会では〈政費節減・民力休養〉を唱える民党連合の中で,自由党130議席に対し改進党は41議席と少なかったが,予算審議の過程では逆に統制のとれた行動を示した。その後〈政費節減・民力休養〉という民党スローガンの行き詰りの中で,民力育成をはかる政府の積極政策に呼応し第4議会後第2次伊藤内閣との提携にむかう自由党に対し,改進党は対外政策を転換し,条約改正に反対して現行条約励行論を主張することにより,国民協会など対外硬諸派との提携を可能にし,民党的立場を守った。しかもこれら対外硬派連合の議席は自由党を上まわり,政府と結んだ自由党と対外硬派と結んだ改進党は,第5議会以後激しく対立する。日清戦争後,95年11月の自由党と政府との公然たる提携宣言を経て,第9議会中の96年3月,改進党は他の小会派と合同して新たに進歩党を結成した。進歩党はまもなく松隈内閣を成立させるが,後に憲政本党にいたっても,基本的には改進党以来の民党的色彩を残存させることになる。
第2次大戦後の改進党は,サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)を目前にした1952年2月,国民民主党を主体に旧民政党追放解除グループたる新政クラブや農民協同党ほかの小会派をあわせて結成された。講和条約調印後,吉田茂首相を支えてきた総司令部は内政干渉をすることができなくなり,自由党内における吉田派と鳩山一郎派との対立は明確になってきた。また,再軍備,逆コース政策強行,ドッジ・ラインによる不況の深まりは,吉田内閣に対する国民の不満をたかめることになった。改進党の結成はこうした情勢のもとでなされた。新党総裁には,6月旧民政党の大麻唯男の尽力により,追放解除後まもない元外相重光葵が就任している。新党は一方で協同主義の理念に基づく修正資本主義の実現を掲げ,他方で日米対等の原則による相互防衛協定の締結と,民力に応ずる自主的自衛軍の創設を掲げた。つまり衆議院議席数71の中政党とはいえ,改進党は人脈的にも政策的にも自由党より複雑であった。したがって改進党は,自由党内の吉田派対鳩山派という明快な対立抗争への対応の局面において,その存在意義を明らかにしていった。たとえば改進党重光派は改憲・軍備に関しては鳩山派と,対米協調に関しては吉田派と協調でき,逆に改進党松村謙三・三木武夫派は対共産圏自主外交に関しては鳩山派と,改憲に消極的という点で吉田派と協調できるのである。改進党は53年4月選挙後自由党との連立をめぐって意見が対立し,結局野党派が党議を制した。改進党,左・右社会党,鳩山自由党の4党連立による重光政権構想が失敗に終わった後,第5次吉田内閣は改進党の閣外協力をとりつけ,しだいに自改提携が強化されていく。54年になると,吉田派は鳩山派を排除して改進党芦田均派に呼びかけ,自改合同による吉田政権の維持ないし緒方竹虎政権の樹立をめざす。他方鳩山派,岸信介派は鳩山政権樹立の方向で自改合同を目ざした。結局改進党は造船疑獄等で吉田派との合同には進まず,鳩山派との合同によって11月民主党を結成した。改進党からは重光副総裁,松村政調会長が就任し,12月に成立する鳩山政権の一翼を担うことになった。
執筆者:御厨 貴
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1952年(昭和27)2月8日、国民民主党を中心に農民協同党、新政クラブの3党が合同して結成した保守政党。国民民主党の前身である国民協同党や農民協同党の立党の精神である「協同主義」の理念を受け継ぎ、政策路線として修正資本主義、改良主義、自主外交を目ざした。総裁は同年6月の党大会で三木武夫(たけお)が就任。改進党は進歩的保守党をもって任じていたが、しだいに憲法改正、再軍備や戦後改革の見直しなど民族主義的傾向を明瞭(めいりょう)に打ち出した。また寄合い世帯であったため派閥抗争も顕在化し、国民の期待と関心も失い、1953年4月の総選挙で大敗した。翌1954年4月自ら解党をして鳩山(はとやま)一郎らの日本民主党に合流した。
[吉田健二]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
第2次大戦後の政党。国民民主党を中心に農民協同党・新政クラブが合同して1952年(昭和27)2月に結成。総裁は公職追放を解除された重光葵(まもる),幹事長三木武夫。修正資本主義と協同主義をうたい,自由党と社会党の中間勢力をめざした。結党以来,内部に与党連携派と野党派の対立があり,軍備・改憲・対ソ外交などの問題についての政策は動揺が続いた。同年10月の総選挙では85議席を得て自由党につぐ第2党となったが,翌年4月の総選挙で76議席に後退。この頃からしだいに野党色を強めて自由党内の反吉田派に接近,54年11月自由党鳩山派などと合同して日本民主党が結成された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,薩長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。…
※「改進党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新