改進党(読み)かいしんとう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

改進党
かいしんとう

日本の政党。1952年2月8日,国民民主党立憲民政党系の追放解除者が結成した新政クラブおよび農民協同党が合流して結成された。中道政治を標榜。総裁重光葵。1954年11月24日,分党派自由党と合同して日本民主党を結成した。(→自由民主党

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディアの解説

改進党【かいしんとう】

(1)自由党と並ぶ自由民権運動の有力政党〈立憲改進党〉の略称。明治14年の政変ののち大隈重信を中心に1882年結成。三菱等の政商と犬養毅尾崎行雄慶応義塾出身者に基盤を置き,英国流の立憲君主制を主張した。府県会の議員層を中心に有力者を組織化する戦略で,東京府会ほか地方議会で勢力を伸ばしたが,自由党の解党後間もなく,組織改革問題で党内が対立,党首脳が脱党して1884年解党状態となった。議会が開設されると,議席は少なかったが初めは政府に対抗,しかし次第に妥協的となり国権論的色彩を強めた。1896年進歩党の結成で解消。(2)1952年2月国民民主党農民協同党,新政クラブが合同して結党した政党。6月追放解除の重光葵(まもる)を総裁に迎え,修正資本主義協同主義を主張して,自由党と社会党の中間勢力を目ざした。1954年鳩山一郎ら自由党反吉田派と合同して,日本民主党を結成。
→関連項目清瀬一郎経国美談島田三郎高田早苗朝野新聞帝政党藤田茂吉前島密松村謙三団団珍聞三菱財閥矢野竜渓郵便報知新聞横浜毎日新聞

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かいしんとう【改進党】

自由民権運動期の政党〈立憲改進党〉の略称,また第2次大戦後の民主党の系統をひく政党〈改進党〉をいう。
[立憲改進党]
 自由党結成に遅れること半年,1882年4月に明治14年の政変下野した大隈重信を総理に結成された。すでに大久保利通没後の政府筆頭参議の時代から,岩崎弥太郎の三菱と経済的きずなを結び福沢諭吉の慶応義塾を優秀な官僚の人材補給源として握っていた大隈は,党結成にあたってそれらの資産を十分に活用し,大隈とともに下野した官僚を幕下に収めた。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

かいしんとう【改進党】

「立憲改進党」の略称。
1952年(昭和27)国民民主党・新政クラブ・農民協同党が合同して結成した政党。総裁重光葵。修正資本主義・協同主義を唱えた。54年日本民主党に合同。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

改進党
かいしんとう

1952年(昭和27)2月8日、国民民主党を中心に農民協同党、新政クラブの3党が合同して結成した保守政党。国民民主党の前身である国民協同党や農民協同党の立党の精神である「協同主義」の理念を受け継ぎ、政策路線として修正資本主義、改良主義、自主外交を目ざした。総裁は同年6月の党大会で三木武夫(たけお)が就任。改進党は進歩的保守党をもって任じていたが、しだいに憲法改正、再軍備や戦後改革の見直しなど民族主義的傾向を明瞭(めいりょう)に打ち出した。また寄合い世帯であったため派閥抗争も顕在化し、国民の期待と関心も失い、1953年4月の総選挙で大敗した。翌1954年4月自ら解党をして鳩山(はとやま)一郎らの日本民主党に合流した。[吉田健二]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の改進党の言及

【大隈重信】より

…しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,薩長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。…

※「改進党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

配偶者

夫婦の一方からみた他方。配偶者としての身分は、婚姻によって取得し、婚姻の解消によって失う。親族ではあるが、親等はない。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

改進党の関連情報